取り消せない選択
本当にそれは僕自身だったのか、未だに疑問は残るが、記憶のない時間帯があることは確かだ。
ならば、矢沢の言う当時の自分を信じるしかない。
あの子——影浦彩音という子に会ってから、自分がどんどんおかしくなっている。
授業を受けても、頭の中を彩音に占領されて、他に入る余地がない。
ただ、無機質に時間と雑音だけが、右から左へ通り抜けていく。
そのくせ、突然叫びだしたくなるような、ぎゅっと胸を鷲掴みされるような痛みがある。この異変の核を知りたいと思った。一刻も早く、不快な感覚を取り除きたい。
授業が終わる頃には、その思いはさらに頭の中だけでなく、全身の神経にもその衝動が満遍なく伝わっていく。
「なぁ、矢沢。一昨日の深夜俺が……お前に電話をかけたんだよな?」
「また、その話? さっき、あの子に連絡するってことで、決着ついたんじゃねぇの?」
矢沢は、心底呆れているような顔だが、僕は食い下がる。
「他には? 俺、何か言ってなかった?」
矢沢は、面倒くさいとばかりに肩を竦める。
「残念ながら、他は何も。俺だって、色々聞きたかったんだぜ? でもさ『時間がないから、ともかく何も聞かず話を聞いてくれ』って言われたもんだから、口をはさむ余地はなかったんだよ。一方的に喋って、すぐ電話切られて、掛けなおしても繋がらなくなっちまった」
その状況から察するに、僕は何かしようとする直前だったのかもしれない。それが、始まりとなった可能性が高いのではないか。
「俺は、どこから電話をかけてた?」
「だから、そんなの確認する時間もなかったんだって」
「何でもいい。情報がほしいんだ。屋内か、屋外かだけでもいい」
「うーん……」
見た目で人を判断してはいけないというが、この矢沢がまさにその典型だと思う。 矢沢は茶髪をかき上げて、懸命に頭を捻りだす。そして「あ」と声を上げた。
「あれは、室内……だな」
「どうして、そう思った?」
「音楽が聞こえたんだよ」
喫茶店などでよく流れているBGMだろうか。
「よくチェーン店とかで流れてる邦楽とかってこと?」
「いやいや、違う。誰か歌ってるようなやつじゃなくて、ピアノで……高そうな喫茶店とかで、流れてそうなのが聞こえてた」
音楽詳しくないからさ……と言いながら、スマホで検索しようとするが、手が止まる。
「音楽調べるとき、どうやればいいんだ?」
矢沢は、堂々と言ってきて、肩透かしを食らってしまいそうになるが、何とかそれをかわす。
「じゃあ、どういうジャンルだった? クラシックとか、ジャズとか……」
「それだ! ジャズ! 」
止まっていた手を動かしジャズを検索して、音楽を流していく。耳障りではない、落ち着いた曲調。
「普段聞かないような洒落てる感じだったから、間違いない」
流れるジャズを耳の端で聞く。
こんな音楽を流す場所なんか、バーくらいだ。そう答えを出した途端、はっとした。
記憶の途切れているあの夜、気づいたとき立っていた場所。銀座の寂れた裏路地。
「矢沢、代返頼んだ」
つま先は、あの場所へ向いていく。
「え? どこ行くんだよ」
「銀座」
僕は、すでに歩き出していた。駅へ向かい、電車に乗る。
ただ、知りたかった。
どうして、こんなに駆り立てられるのか。どうして、こんなに胸が掴まれたように苦しいのか。
原因を早く突き止めて、消し去りたかった。
矢沢から渡されたしわしわの紙をポケットから取り出す。電話番号の奥から、涙を流す彼女の顔が浮かんでくる。
彼女に直接聞けば、きっと教えてくれるだろう。だが、また彼女に会えばきっとまた自分が自分でなくなる。訳が分からず、自分自身に振り回されてしまう。
だから、僕は、自分で自分自身のことを知りたいと思った。
電車を乗り継いで、銀座三丁目で下車する。
全く知らないはずの街なのに、足だけは行き先をすでに知っているかのように動いていた。
バーへ向かう途中。工事現場のシートが靡いているのが目に入った。
その瞬間、汗が噴き出した。拒否反応を起こしているかのように、足が竦んだ。
まただ。体が勝手に反応している。いちいち、こうやって翻弄される自分自身に腹が立って仕方がなかった。
重くなる足を無理矢理でも引きずって、その先へ進む。
たどり着いた場所は、寂れた裏路地。記憶にある場所と同じ光景だった。
そして、自分が立っていた場所。その場所には、先ほどの推測通りのバーの『夢幻』と書かれた看板がある。その壁に、重々しい扉。
また勝手に、手が震えてくる。それを抑え込んで、僕はドアを押した。
カランと、軽快なカウベルの音。そして、ジャズピアノが僕を受け入れた。
すぐに「いらっしゃいませ」と声が響き、小柄な女性が現れた。女性の双眸が僕の姿を捉えた途端、大きく見開かれた。
「なんで……」
女性が一歩、二歩と、下がっていく。
「やっぱり俺は、ここに来たことがあるんですね?」
僕は、足早に彼女へ近づきながら、声を飛ばした。
「ここで、僕に何が起きたんですか? 全部、知ってるんですよね?」
女性へ詰め寄る僕の肩を、男が掴んで、引き剥がした。その力が強く、その場で尻餅をつく。
見下ろしてくる男の目は、暗がりでもわかるほど鋭く冷たかった。
「お前が自分で選んだ道だ」
「俺が選んだ道?」
「すべてを受け入れろ。言えることは、それだけだ。みつえ、こいつを追い出すぞ」
みつえと呼ばれた女性は、何か言いたそうな顔をしながらも、きゅっと口を引き結んでいく。
僕は、床を叩き、立ち上がる。
「全部、あいつのせいだ……」
彩音を振り払いたかった。少しでもずっとうずくまっている鉛のような物体を吐き出すように、言ってみる。
「お願いだから、彼女をそんな言い方、しないで」
みつえは、傷ついたように顔をゆがめていたが、声は怒りに満ちていた。
「じゃあ、せめて教えてくれ。俺はあの時、何を願っていたんだよ?」
僕のすべてを拒否しているかのような、重々しい沈黙だけが広がっていく。
みつえは、重い口を開こうとしたとき、男が言った。
「お前は心から切望し、今のように苦しむ道を選んだ」
「……純さん、そんな言い方」
「だが、それが事実だろう。その結果が、今だ」
純が、ぴしゃりと言い切り、僕を見据えてくる。
この場の雰囲気に全く馴染まないジャズが、まるで僕をあざ笑っているかのように聞こえた。頭に来て、仕方がなかった。
自分自身が選んだ道。その理由さえ分かれば、まだ我慢できるかもしれないが、それさえもわからない。
得体の知れないものに対して、どうしてこんな不快な思いをしなければならないんだ。
「……なら、今あの部屋へ入れてくれ。夢を叶えた瞬間、夢を失ったっていうのなら、もう一度入って、全部なかったことにする。それで、全部終わりだ」
店内を見まわし、壁と同化したドアを見つける。そこへ肩を向けようとしたら、みつえが立ちはだかった。
「二度と、そんなこと言わないで。あなたが始めたことよ。あなたのせいで、彩音さんをこれ以上振り回さないで」
みつえの尖った声が耳に届いた瞬間、胃の底がずっしりと重くなる。
「じゃあ、どうしたらいいんだよ! 何をしていても、彩音の顔がちらついて何も頭に入ってこない。頭が、おかしくなりそうだ……」
「どう足掻こうが一度叶えた夢は、取り消すことはできないし、一度禁忌を犯したお前は部屋自体に入ることはできない」
純は、淡々と告げてカウンターの中へ入り、丁寧にグラスを拭き始める。
グラスを置いた拍子に、隣のグラスとぶつかった。キンと冷たい音を立てた。
「じゃあ……俺は、どうしたらいいんだよ」
グラリと視界が揺れる。バーカウンターに、咄嗟に手をつく。机の上にあったウイスキーボトルの琥珀色の液体が、大きく波打った。ジャズがその波の上を流れていく。そこに純の声が乗った。
「だが、お前の苦しみはわかる」
純の声が一段落ちた。
「俺も、あの部屋へ入って願ったことがある」
波が凪ぐ。
純は、あの扉へ視線を伸ばして、痛々しく目を細めていく。
視線は、扉を突き抜けて、遥か彼方まで伸びていた。
みつえも、純の視線を追いかけていく。しかし、同じものを見ているはずなのに、いつまで経っても二人の視線は交わることのなかった。
その先に、何があるのか僕にはわからない。
ただ、胸の奥深くが疼いていた。




