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夢の果てで、またいつか  作者: 野本


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8/10

困惑

 僕は、しばらく身動きが取れなかった。

 相手は、勝手に部屋に上がり込んでいた女。渡した覚えもない部屋の鍵を、この女は渡されたと、主張してくる。

 これ以上関わるのは、遠慮したい相手だ。早くここから、立ち去ってしまえばいい。そう思うのに、足が動かなかった。

「……ごめんなさい……突然言われて、訳、わかんないよね……」

 それに対して「あぁ」と答えた僕の声が、震えていて、自分自身驚いた。

 どうして、こんなに心臓が早く脈打つのか。喉の奥が締め付けられるのか。まったく理解できなかった。


 彼女が鞄へ手を伸ばす。

「不安にさせて、ごめんなさい。これ、返すね」

 彼女の手のひらの上には、僕の部屋の鍵があった。そこへ手を伸ばしたいのに、動かない。そんな僕の手首に細い手が絡む。そして、僕の手に無理やり鍵を押し付けた。彼女の手が僕の手を包んで、握らせる。俯いたままの彼女の顔は見えなかった。

 手が離れていく。

「待って」

 気づけば、彼女の手を握っていた。

 僕は、いったいどうなっている。おかしいのは、こいつの方なのに。

 拳を握る。手の中にある鍵の尖った部分が食い込んだ。刺さった部分が鋭い痛みを伴って、頭の奥まで伝わっていく。

 ハッとした顔で、何かを切望するように見つめ返してくる。

 その眼を、見ていたら、人差し指からゆっくり力が抜けていた。

 自然と手が離れる。彼女の目元に、再び涙が溜められていく。

 その涙がこんなにも胸を抉ってくるのかわからない。

「いや……何でもない……」

 もうこれ以上、見ていたくなかった。僕が、彼女へ背を向けようとしたとき、彼女は走り出していた。振り返ることなく、走っていく。遠くなっていく背中。その横に誰かが駆け寄ってきて、肩を抱いている。支えられるようにして歩いていく。

 触れた手のぬくもりが、いつまでたっても消えない。

 そして、二人は木々の影の中へ吸い込まれ、その奥へと消えていった。


 彼女に全部の生気を抜かれたようだった。

 ベンチにどっしりと、腰を下ろす。頭が重さに耐えきれず、膝に肘を付いて両手で頭を支える。 視界に入ってきた、足元の影がやけに揺れて見えた。

 その横に、矢沢が座る。

 こんな時こそ、いつもの無駄な軽口を叩いてくれればいいのに無言でいるのは、居心地が悪かった。


「矢沢は、あの子のこと、知ってるんだろ? いつ、どこで知り合った?」

 本当ならば、全く違う話題にしてしまいたいところだったが、簡単に頭は切り替わってはくれない。

 僕の質問に、たっぷり間を置く。

 そして、矢沢は答えた。

「それが、俺もよく知らないんだよね」

 矢沢は、自分の矛盾に困惑することなく、あっさりとしていた。

 僕は、顔をしかめる。

「は? お前、さっきあの子の知り合いだって言ってたじゃないか」

「言ったけど、実際のところ俺は知らない」

「じゃあ、どうしてさっきは、知り合いだって、嘘を言ったんだよ」

 非難を込めて睨み付ければ、矢沢はじっと僕の目の奥を見て、眉を顰めた。

「お前さ、本当に覚えてないの? 俺に真夜中、電話かけてきたこと」

 

 指摘された夜中へ、時間を巻き戻してみる。たしかに、その時、不思議なことがあったことを思い出した。

 どこをどうやって歩いたのかさえ覚えていないのに、気づけば銀座の寂れた裏通りに突っ立っていた。

 

「お前が言ったんだ。『もしも、俺宛てに誰かが訪ねてきたら、助けてやってほしい。もしかしたら、俺今言ったことを全部忘れるかもしれないから、矢沢はこのことを覚えておいてくれ』って」

 耳を疑うような話だ。

「そんなこと……俺が言ったのか?」

 訝しみながら矢沢へ問い返す。矢沢は、不満気に目を細めた。

「あぁ。間違いない。突拍子のないこと言い始めるから、マジで頭でも打ったんじゃないかって言いたかったんだ。けど、あまりにも真剣に言うもんだから、何も言えなくてさ。『とりあえず、じゃあその尋ね人の名前教えろ』って、お前に聞いたんだ。そしたら『それを言えない』って言って、そのまま電話は切られた」

 矢沢は、むくれながらいう。

「だから、俺、その次の日の朝、ちゃんとお前に確認したよな?」

 眉間を指さされれば、その日のことははっきりと覚えていた。

 大学に行って矢沢と顔を合わせた第一声は、『お前、どこも怪我してないか?』だった。そして、立て続けに『昨晩の電話、お前覚えてるか?』と聞かれ、僕は『電話した覚えがない』と答えた。

 スマホを確認してみても、僕から矢沢へ電話した履歴は残っていなかったから、矢沢の方がおかしかったんじゃないかという結論に落ち着いていた。そのせいで、矢沢は、その日はずっと不機嫌だった。

「それで、実際にあの子たちがやってきた。だから、俺はあの日お前に言われた通り、あの子たちを助けてあげたというわけだ」

 矢沢は、あの日の不機嫌さを晴らしたような顔をして、勝ち誇ったように言う。

「わからない……俺の方が、おかしいって、ことか……?」

 矢沢が言っていることが正しいとなると、僕の記憶の方がなかったことになる。

 ずっと握りしめていた手を開く。太陽に反射して輝く鍵を見つめる。

 

『翔が、私にくれたんだよ……』

 涙ながらに、そういった。

「……じゃあ、さっきの子が言っていたことも、嘘じゃないってことか?」

 もしも、あの彩音という子の言っていることが本当だったとしたら、かなり親しい関係にあったということになる。

「矢沢は、あの子……影浦彩音っていう子、知ってたか?」

 矢沢は、プライベートに無駄に首を突っ込んできて、根掘り葉掘り詮索してくる。もしも、彩音と仲が良かったら、僕から矢沢へ何か話しているなり、会わせているなりしているはずだ。

 矢沢は、怪訝な顔をしつつ、頭を捻らせていた。しばらく腕組みをした後、自分の首筋を掻いた。

「記憶にないな。少なくとも、お前の口からその名前が出てくるのは、今が初めてだ」

 その答えは、当然で僕はやっぱり正常だと安堵するのに、深い落胆の穴に落ちていく。

 この矛盾をどう受け止めればいいのか。胸の奥が、ずっと気持ち悪い。

 気分を変えようと、空を仰ぐ。しかし、太陽が眩しすぎて目が痛かった。

 そんな僕を差し置いて、矢沢は突然立ち上がった。

 

「俺は、決めた」

 矢沢は、僕を見下ろす。

「俺は、前のお前に言われた言葉を遵守することにする」

 ポケットから出てきた紙を投げてよこした。パサリと音を立てて、僕の膝に乗る。

 小さな紙きれだ。それを開くと、電話番号らしき数字の羅列が顔を出してきた。

「……これは?」

「さっき一緒にいた楓っていう子から教えてもらった彩音さんの電話番号。ごちゃごちゃ言ってないで、彩音さんへ連絡しろ」

 選択肢はない。

 矢沢はそう言って、逃げ場をふさいでいく。


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