部屋のカギ
矢沢が立ち上がり、大きな体を大きく揺らす。両手を高くつき上げた。
ただでさえ目立つ矢沢は、嫌でも目に入る。翔だけでなく、他の学生たちの視線も集まっていた。
「翔、こっち!」
声を張り上げると、翔が手をあげる。
私を認識した途端、翔の顔が硬直するのが遠目からでもわかった。
つま先が勝手に動く。その方向へ身体を向けようとしたとき、楓に手をぎゅっと握られた。私の手をとって、楓の手で包み込まれる。私はコンサート前、緊張でよく手が悴む。そんな時、楓はいつも私の手を両手で包み込んでくれる。それと同じだった。
「大丈夫。自信持って」
楓は、微笑む。私の手に熱が戻る。
離れていく楓の手。貰った熱を失わないように、私はきつく拳を握る。
翔の影は、私のつま先の手前で止まる。
恐れる気持ちを押し殺して、顔を上げる。
「一体、どういうことだよ」
警戒心剥き出しの視線とぶつかる。酷く鋭く、冷たい。翔の部屋から追い出された時と同じものだった。
背筋が凍り付きそうになる。
矢沢は、そんな私と翔のひりついた空気など気にする素振りもなく、緩やかな雰囲気を崩さない。
「どういうことって?」
矢沢がちょっと面倒くさそうに言うと、翔の目が更に強くなる。
「こいつだよ。俺の部屋に勝手に上がり込んでたの」
指さした方向は、私。
みんなの前で、晒し物にされている気分だった。
さっと風が吹く。汗が滲んでいた場所から、体温を奪われていく。
楓が、私をかばう様に前に立ってくれようとしたとき、矢沢は言った。
「あぁ、やっぱりね。そうだと思ったよ」
どうして、庇ってくれるの?
喉元まで出かかった声を飲み込みながら、矢沢の横顔を見守る。
「俺が彩音さんに教えたの。お前の部屋」
矢沢は、私を一瞥し、笑う。いったい何を考えているのだろう。
いくら探ろうとしても、私の観察眼では上手に貼り付けられた仮面の奥の素顔は、見えそうになかった。
「お前が? お前、こいつらと知り合いだったのか?」
「まぁ、そういう感じ? せっかく本人がいるんだし、お前が直接聞けばいいだろ? 『もっと、ちゃんと話を聞けばよかった』って、言ってたじゃん」
矢沢は、翔の肩を叩く。
「ちゃんと話した方がいいんじゃない?」
穏便になと、付け加える。
翔が苦々しく顔を歪めたところで、矢沢は私の背を押した。
思いのほか、その力が強くて私は強制的に一歩前に出る。翔の影が、私と重なる。
「というわけで、俺たちは退散するわ。ほら、行こうぜ」
矢沢はのんびりとそういって、楓を促す。
「え? 私も?」
矢沢は躊躇する楓の肩を掴んで、強制退場させていく。楓は、後ろ髪を引かれるように何度も振り返ってきていたが、角を曲がり二人の姿は見えなくなっていた。
中途半端な時間なのか、ひっきりなしに行き交っていた学生たちの姿はない。
残されたのは、私と厳しい顔をした翔だけだった。
私は、ずっと拳を握っていた手を開く。そして、深々と頭を下げた。
「先日は……勝手に、すみませんでした」
謝罪の余韻に浸る時間すら与えられることなく、頭上から淡々とした声音が落ちてきた。
「どうやって、部屋に入った? 俺が、聞きたいことはそれだけだ」
それ以上は、喋るな。そう言われている気がした。
開いていた手から、また熱が逃げていく。
話を聞けばよかった。
その言葉の意味を、私は自分の都合がいいように改ざんしていた。自分の身勝手さに、嫌気がさす。
顔を上げても、翔の顔をまともに見ることができなかった。
「あなたの部屋の鍵を持っていたので……」
翔の真っ黒な影が、揺れる。
「なぜ、あんたが持ってたんだ? もしかして、矢沢? かなり前から俺の部屋の合鍵がなくなってたのは、あいつのせいか?」
刺々しい声だった。
それが、私じゃない矢沢の方へ向いていく。矢沢にこれ以上、泥をかぶってほしくなかった。
「違います……矢沢さんじゃ、ありません」
再び拳をきつく握った瞬間、何かが途切れた。
ぱっと顔を上げた瞬間、勝手に溢れた。
「翔が、私にくれたんだよ……」
みるみる視界が滲んでいく。冷たい翔の顔が、どんどん歪んで見えてくる。
私は本当に自分勝手で独りよがりで、それでも私のことをわかってほしいと願っている。
そんな自分が、心から頭にきて、苦しかった。
「私……小さい頃からピアノだけが取り柄だった。逆を言えば、それ以外は何もできなくて……。親はいつも言ってた。『お前は、とにかくピアノを弾いているだけでいい』って。ずっとそう言われてきたの。私の存在価値は、ピアノがあってこそだった」
それが私の生きる意味で、求められているもの。ピアノが、私の人生のすべて。私も信じて疑っていなかったけれど、ふと瞬間に過るものがあった。
もしも、突然ピアノを失ってしまったら、私はどうなる?
突然、指が動かなくなったら。耳が聞こえなくなったら。感覚を失ったら。
それでも、私が生きる意味はあるのだろうか。
「私は……単純で、でもピアノは確かに好きで……余計なことは考えないようにしていた」
考えると、不安で眠れなくなる。食べ物も全部味がしなくなる。それでも、やっぱり時折考えてしまう。
その繰り返し。
出口のない真っ白な空間をずっとぐるぐる彷徨っている、そんな感じだった。
「……そんな時、翔が私に鍵をくれた」
真っ暗な部屋に、突然扉が目の前にできたような感覚だった。
「『何もしないでいいから、ただここで待っていて』って……」
その言葉を、私はずっと求めていたことに、自分でも気付いてなかった。
鍵を開けて、カチャリと開く音。その瞬間、世界が変わった。
「嬉しかったんだ……すごく」
拓けた先は、とても鮮やかな景色。
太陽が降り注ぎ、緑が溢れて、色とりどりの花が揺れる。
その世界をくれたのは、翔だった。翔がほんの一瞬、息を詰める気配がしたように聞こえた。
「……ごめんなさい……突然言われて、訳、わかんないよね……」
涙が落ちるたびに、目の前が少しだけ鮮明になるけれど、またすぐに分厚い水の膜で覆われていく。
翔の顔どころか、自分の手の形もよくわからない。
「……あぁ」
歪んだ世界で聞こえてくる翔の声も、微かに震えて聞こえてくる。




