微かな希望
自分が通っている大学の校門とさして変わりやしないのに、番人のように見えた。
つい立ち止まってしまう。
楓は、そんな私の背中を押した。
「ねぇ、せっかくだからここの学食でランチしようよ」
楓の勢いに押されて、つい翔の大学にまで来てしまったが、彼がどこで何をしているかまではさすがに知らない。
「オムライスがおいしいって、口コミにあったんだよね」
楓は、食へのこだわりが強い。どうやら楓の目的は、そちらの方らしかった。
目がキラキラ輝いている。私は、苦笑する。
そのくらい気楽でいてくれる存在が、心から有難かった。
昼時の学食の風景は、どこも変わらない。
学生たちで溢れかえっている。
ほぼ満席の中、タイミングよく長テーブルの二席が空いた。そこに滑り込み、並んで座る。
「やっぱり、噂通りおいしいね!」
顔がとろけている。私も、その幸せを堪能することにしたが、食べ終えてしまえば、口の中にケチャップの酸っぱさだけが残った。
「つい勢いで来ちゃったけどさ……やっぱり、帰ろうかな」
「え? 何言ってんの?」
「だって、よく考えてみたらさ。翔にとって、私は全く知らない人間だったわけでしょ? そんな人間が、この前家に勝手に上がり込んでいたんだよ? その時点で、かなりやばい人なのに、大学にまでやってきたってなったら……」
もしも、自分がその立場だったら、確実に悲鳴を上げるレベルだ。
絶対大騒動になる。
「深く考えすぎだって」
私が見てきた翔は、いつだって笑顔だった。
翔が怒るとあんな顔をして、あんなに冷たいんだと知ったのは、昨晩が初めてだ。
だからこそ、余計に不安が募る。
「大丈夫。騒ぎになりそうだったら、私がちゃんと説明するからさ。ともかく、行動あるのみだよ」
といいながら、楓は顎に手をやる。
「そういえば、これから彼がどこでどの授業受けるか知ってるの?」
「……あ」
「彩音のことだから、そうだと思ったよ」
「ごめん……工学科しか知らない……」
やっぱり、出直した方がいいかも。そんな逃げを楓は許してはくれなかった。
「じゃあ、その工学科の校舎前で張り込みだね」
楓の目はオムライスを頬張っていた時以上に、ギラギラ輝いていた。
今朝は、どうせなら雨がいいと思っていたが、今は晴れていてよかったと思う。
校舎の入り口が見えるベンチに腰を下ろす。
春めいた日差しは、ちょうどよく風も程よく気持ちがいい。
木々が爽やかに揺れ、心地いい和音を奏でている。
翔と初めてデートをした時も、こんな陽気だった。
出かけた先は、新宿御苑。
並んで歩いても、時折肩がぶつかる。
そんな距離感だった。
「公園っていいよね。穏やかな気持ちになる。ここで思いっきりピアノ弾きたい気分」
もしも、本当に芝の上にピアノがあったら。私は何を弾くだろう。そんなことを考える。
「本当に、ピアノが好きなんだな」
少し高い場所にある翔の横顔が、穏やかな笑顔を作る。
自然と足が止まっていた。
「うん、好きだよ」
質問に対しての答え。でも、翔も立ち止まって、私へ体を向けてくる。
やけに真剣な眼差しだった。
これは、デート。ということは、もしかして。きゅっと目を閉じようとしたとき。
「俺、彩音のことが好きだ。付き合ってほしい」
何の飾り気もないシンプルな告白。私の目は丸くなっていたのだろう。
「そんなに、驚いた?」
心配そうに尋ねてくるから、私はつい笑ってしまった。
「私は、てっきり『あなたのピアノ、世界で一番好きです』が告白で、もう付き合っているとばっかり思ってたから」
「……あれは、記憶から消してくれ……」
翔はまるで今の告白を断られたような顔をして、落ち込んでいくから、私はますます可笑しくなっていた。
「嬉しかったんだから、忘れないよ」
その勢いが口を滑らせていたんだと思う。
「今は、てっきりキスでもされると思って、緊張して損した」
その瞬間、唇が触れた。それは一瞬。すぐに離れていったが、全身の血が顔に集まっていた。顔が燃えるように熱い。
大胆なことをした張本人の顔も真っ赤になっていて。
その後、ちょっとした言い合いになった。
あの時は、恥ずかしさが先行してしまって、嬉しさは、あの時吹いた風に乗って吹き抜けてしまった。
その時、攫っていった風が戻ってきて、今更あの時の感情が胸に戻ってくるようだった。
ぽっかり空いてしまった穴に風が吹き抜けて、傷口を刺激する。
楓から鼻歌が聞こえてくる。
きれいな声が、ほんの少しだけ痛みを和らげてくれる。
いくら待っても、出入りしていく学生たちの中に翔はいなかった。
そろそろ、引き上げようかと、腰を上げる。
まばらになった人の波。その中で一つだけ、飛び出している頭を見つけた。
「矢沢君だ」
矢沢啓介。翔と仲が良く、何度か一緒に食事をしたことがある。
「え? 誰? 矢沢君?」
声楽をしているから、楓の声はよく通った。
学生たちの喧騒を突き破って、空にまで響き渡っていく。
「え?」
矢沢が振り返り、目が合ってしまう。
どうしよう。そう思ったとき、大胆にも楓が手招きし始める。私はあわててその手を掴んだ。
「ちょっと! 呼んで、どうするのよ?」
「だって、知り合いなんでしょ?」
「楓、翔のことを覚えてないんだから、きっと矢沢君も私のこと覚えてないよ!」
「あ、そっか」
楓がぺろっと舌を出した時には、すでに矢沢が目の前にいた。
「僕のこと、呼んだ?」
矢沢は人懐っこそうな笑顔を浮かべている。翔とは少し違う、ぱっとした明るさがある。明るめの髪の色をしているから、余計そう見えるのかもしれない。私は慌てて立ち上がり、頭を下げる。
「ごめんなさい、人違いでした」
「いや、僕は矢沢で間違いないけど?」
その切り返しがくるとは、思っていなかったが、矢沢はそういう人間だ。
慌てふためく私を差し置いて、楓は怪しい笑顔を浮かべ始めていた。
嫌な予感がする。
「実は、あなたに聞きたいことがあるの」
楓は、私の隣に座れと勧める。
矢沢は、言われるがまま腰を下ろした。
そこまでしておいて、楓は「あとは任せた」と呟き、私の背中を叩く。溜息しかでなかった。
仕方なく私は、矢沢へ向き直る。
「あの、光平翔さんと……お友達の矢沢啓介さん、ですよね?」
期待を込めて矢沢を見つめる。久しぶりだなと、言ってほしかった。
「あなたは、どちら様?」
矢沢は笑いながら腕組みをする。
落胆で視界がぼんやりとする。
「私は、影浦彩音と申します。こちらは、岩谷楓。実は、光平翔さんのことで、少しお聞きしたいことがあるんです」
矢沢は、腕組みしたまま頷いてくる。私は自分で言い出していながら、どう切り出そうか迷う。
「その、最近……彼の様子どう、ですか?」
「様子?」
「えっと、例えば……いつもと雰囲気違うな、とか」
変なことを言わないように、気を付けながら、言葉を選んだつもりだった。
矢沢は、私のことを警戒しているのか、目が少し鋭くなっている。
慎重に行こう。この前みたいに、警察を呼ぶぞなんて言われないように。
私は、大きく深呼吸をしたとき、楓が突然爆弾を投げてきた。
「突然記憶がなくなったとか、そういう話です」
楓が、前傾姿勢になっていた。
「ちょ、ちょっと!」
「こういうチャンスは逃さない。直球が一番」
楓は、自信満々に言い切ってきて、何も言い返すことができなかった。
矢沢は、そんなやりとりを興味深そうに観察しながら笑った。
「なにそれ。何かの冗談?」
「大真面目です」
楓がさらに前のめりになる。
矢沢は、顎に手をやる。
見た目は今時の学生風なのに、こんな突拍子のない質問に対しても、真面目に考えてくれる。ポケットからスマホを取り出し、何かを確かめるように指先を滑らせていた。
そして、たっぷり時間をかけて、手を止めて顔を上げる。
「さっきも一緒だったけど、いつも通りだったよ」
想定内の答えだ。それなのに、胸の奥に爪でひっかかれたような傷がついていく。
大した傷じゃないのに、妙に痛い。
「そういえば……昨晩、家に帰ったら知らない女が上がり込んでたって話は聞いたよ。驚いて、無理やり追い出したらしいけど」
それ、私ですとは言えるはずもなかった。急に叩かれた痛みが舞い戻ってくる。
その痛みが強くなって、いたたまれない。
立ち上がろうとした時、矢沢は言った。
「でもさ、そのあと思ったんだって。『ちゃんと話を聞けばよかった』って」
矢沢の黒い瞳が私へ向く。
「あいつなら、冷静に警察に突き出すタイプのはずなのに、そんなこと言い始めたから、翔の頭大丈夫かって心配しちまったよ」
引っかかれた傷が、突然消えた。
楓よりも私の方が、前のめりになっていた。
「理由は? なんで、そう思ったか、本人に聞きましたか?」
「……そんなに気になるなら、本人に聞いたら?」
その方向へ顔を向ける。
「呼び出しておいた」
翔が校舎から出てくるところだった。




