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夢の果てで、またいつか  作者: 野本


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6/8

微かな希望

 自分が通っている大学の校門とさして変わりやしないのに、番人のように見えた。

 つい立ち止まってしまう。

 楓は、そんな私の背中を押した。

「ねぇ、せっかくだからここの学食でランチしようよ」

 楓の勢いに押されて、つい翔の大学にまで来てしまったが、彼がどこで何をしているかまではさすがに知らない。

「オムライスがおいしいって、口コミにあったんだよね」

 楓は、食へのこだわりが強い。どうやら楓の目的は、そちらの方らしかった。

 目がキラキラ輝いている。私は、苦笑する。

 そのくらい気楽でいてくれる存在が、心から有難かった。

 

 昼時の学食の風景は、どこも変わらない。

 学生たちで溢れかえっている。

 ほぼ満席の中、タイミングよく長テーブルの二席が空いた。そこに滑り込み、並んで座る。

「やっぱり、噂通りおいしいね!」

 顔がとろけている。私も、その幸せを堪能することにしたが、食べ終えてしまえば、口の中にケチャップの酸っぱさだけが残った。


「つい勢いで来ちゃったけどさ……やっぱり、帰ろうかな」

「え? 何言ってんの?」

「だって、よく考えてみたらさ。翔にとって、私は全く知らない人間だったわけでしょ? そんな人間が、この前家に勝手に上がり込んでいたんだよ? その時点で、かなりやばい人なのに、大学にまでやってきたってなったら……」

 もしも、自分がその立場だったら、確実に悲鳴を上げるレベルだ。

 絶対大騒動になる。

「深く考えすぎだって」

 私が見てきた翔は、いつだって笑顔だった。



 翔が怒るとあんな顔をして、あんなに冷たいんだと知ったのは、昨晩が初めてだ。

 だからこそ、余計に不安が募る。

「大丈夫。騒ぎになりそうだったら、私がちゃんと説明するからさ。ともかく、行動あるのみだよ」

 といいながら、楓は顎に手をやる。

「そういえば、これから彼がどこでどの授業受けるか知ってるの?」

「……あ」

「彩音のことだから、そうだと思ったよ」

「ごめん……工学科しか知らない……」

 やっぱり、出直した方がいいかも。そんな逃げを楓は許してはくれなかった。

「じゃあ、その工学科の校舎前で張り込みだね」

 楓の目はオムライスを頬張っていた時以上に、ギラギラ輝いていた。


 今朝は、どうせなら雨がいいと思っていたが、今は晴れていてよかったと思う。

 校舎の入り口が見えるベンチに腰を下ろす。

 春めいた日差しは、ちょうどよく風も程よく気持ちがいい。

 木々が爽やかに揺れ、心地いい和音を奏でている。

 

 翔と初めてデートをした時も、こんな陽気だった。

 出かけた先は、新宿御苑。

 並んで歩いても、時折肩がぶつかる。

 そんな距離感だった。

「公園っていいよね。穏やかな気持ちになる。ここで思いっきりピアノ弾きたい気分」

 もしも、本当に芝の上にピアノがあったら。私は何を弾くだろう。そんなことを考える。

「本当に、ピアノが好きなんだな」

 少し高い場所にある翔の横顔が、穏やかな笑顔を作る。

 自然と足が止まっていた。

「うん、好きだよ」

 質問に対しての答え。でも、翔も立ち止まって、私へ体を向けてくる。

 やけに真剣な眼差しだった。

 これは、デート。ということは、もしかして。きゅっと目を閉じようとしたとき。

「俺、彩音のことが好きだ。付き合ってほしい」

 何の飾り気もないシンプルな告白。私の目は丸くなっていたのだろう。

「そんなに、驚いた?」

 心配そうに尋ねてくるから、私はつい笑ってしまった。

「私は、てっきり『あなたのピアノ、世界で一番好きです』が告白で、もう付き合っているとばっかり思ってたから」

「……あれは、記憶から消してくれ……」

 翔はまるで今の告白を断られたような顔をして、落ち込んでいくから、私はますます可笑しくなっていた。

「嬉しかったんだから、忘れないよ」

 その勢いが口を滑らせていたんだと思う。

「今は、てっきりキスでもされると思って、緊張して損した」

 その瞬間、唇が触れた。それは一瞬。すぐに離れていったが、全身の血が顔に集まっていた。顔が燃えるように熱い。

 大胆なことをした張本人の顔も真っ赤になっていて。

 その後、ちょっとした言い合いになった。

 あの時は、恥ずかしさが先行してしまって、嬉しさは、あの時吹いた風に乗って吹き抜けてしまった。

 

 その時、攫っていった風が戻ってきて、今更あの時の感情が胸に戻ってくるようだった。

 ぽっかり空いてしまった穴に風が吹き抜けて、傷口を刺激する。

 楓から鼻歌が聞こえてくる。

 きれいな声が、ほんの少しだけ痛みを和らげてくれる。

 いくら待っても、出入りしていく学生たちの中に翔はいなかった。


 そろそろ、引き上げようかと、腰を上げる。

 まばらになった人の波。その中で一つだけ、飛び出している頭を見つけた。

「矢沢君だ」

 矢沢啓介。翔と仲が良く、何度か一緒に食事をしたことがある。

「え? 誰? 矢沢君?」

 声楽をしているから、楓の声はよく通った。

 学生たちの喧騒を突き破って、空にまで響き渡っていく。

「え?」

 矢沢が振り返り、目が合ってしまう。

 どうしよう。そう思ったとき、大胆にも楓が手招きし始める。私はあわててその手を掴んだ。

「ちょっと! 呼んで、どうするのよ?」

「だって、知り合いなんでしょ?」

「楓、翔のことを覚えてないんだから、きっと矢沢君も私のこと覚えてないよ!」

「あ、そっか」

 楓がぺろっと舌を出した時には、すでに矢沢が目の前にいた。

「僕のこと、呼んだ?」

 矢沢は人懐っこそうな笑顔を浮かべている。翔とは少し違う、ぱっとした明るさがある。明るめの髪の色をしているから、余計そう見えるのかもしれない。私は慌てて立ち上がり、頭を下げる。

「ごめんなさい、人違いでした」

「いや、僕は矢沢で間違いないけど?」

 その切り返しがくるとは、思っていなかったが、矢沢はそういう人間だ。

 慌てふためく私を差し置いて、楓は怪しい笑顔を浮かべ始めていた。

 嫌な予感がする。

「実は、あなたに聞きたいことがあるの」

 楓は、私の隣に座れと勧める。

 矢沢は、言われるがまま腰を下ろした。

 そこまでしておいて、楓は「あとは任せた」と呟き、私の背中を叩く。溜息しかでなかった。

 仕方なく私は、矢沢へ向き直る。


「あの、光平翔さんと……お友達の矢沢啓介さん、ですよね?」

 期待を込めて矢沢を見つめる。久しぶりだなと、言ってほしかった。

「あなたは、どちら様?」

 矢沢は笑いながら腕組みをする。

 落胆で視界がぼんやりとする。

「私は、影浦彩音と申します。こちらは、岩谷楓。実は、光平翔さんのことで、少しお聞きしたいことがあるんです」

 矢沢は、腕組みしたまま頷いてくる。私は自分で言い出していながら、どう切り出そうか迷う。

「その、最近……彼の様子どう、ですか?」

「様子?」

「えっと、例えば……いつもと雰囲気違うな、とか」

 変なことを言わないように、気を付けながら、言葉を選んだつもりだった。

 矢沢は、私のことを警戒しているのか、目が少し鋭くなっている。

 慎重に行こう。この前みたいに、警察を呼ぶぞなんて言われないように。

 私は、大きく深呼吸をしたとき、楓が突然爆弾を投げてきた。

「突然記憶がなくなったとか、そういう話です」

 楓が、前傾姿勢になっていた。

「ちょ、ちょっと!」

「こういうチャンスは逃さない。直球が一番」

 楓は、自信満々に言い切ってきて、何も言い返すことができなかった。

 矢沢は、そんなやりとりを興味深そうに観察しながら笑った。

「なにそれ。何かの冗談?」

「大真面目です」

 楓がさらに前のめりになる。

 矢沢は、顎に手をやる。

 見た目は今時の学生風なのに、こんな突拍子のない質問に対しても、真面目に考えてくれる。ポケットからスマホを取り出し、何かを確かめるように指先を滑らせていた。

 そして、たっぷり時間をかけて、手を止めて顔を上げる。

「さっきも一緒だったけど、いつも通りだったよ」

 想定内の答えだ。それなのに、胸の奥に爪でひっかかれたような傷がついていく。

 大した傷じゃないのに、妙に痛い。


「そういえば……昨晩、家に帰ったら知らない女が上がり込んでたって話は聞いたよ。驚いて、無理やり追い出したらしいけど」

 それ、私ですとは言えるはずもなかった。急に叩かれた痛みが舞い戻ってくる。

 その痛みが強くなって、いたたまれない。

 立ち上がろうとした時、矢沢は言った。

「でもさ、そのあと思ったんだって。『ちゃんと話を聞けばよかった』って」

 矢沢の黒い瞳が私へ向く。

「あいつなら、冷静に警察に突き出すタイプのはずなのに、そんなこと言い始めたから、翔の頭大丈夫かって心配しちまったよ」

 引っかかれた傷が、突然消えた。

 楓よりも私の方が、前のめりになっていた。

「理由は? なんで、そう思ったか、本人に聞きましたか?」

「……そんなに気になるなら、本人に聞いたら?」

 その方向へ顔を向ける。

「呼び出しておいた」

 翔が校舎から出てくるところだった。

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