託される願い
翔と別れた後、泣いていた私を心配して、楓は私の家まで律儀に送ってくれた。
「わざわざ、ありがとうね。ちょっと、心のもやもやが少し晴れたよ」
すっかり暗くなった空は、雲一つない。
「この先どうするかは、また考えよう。たっぷり時間はあるんだから」
その時間をくれたのは、翔なんだよ。
そんなことが思い浮かんできて、薄暗い霧に包みこまれそうになる。楓は、そんな私の背中を強めに叩いた。ドンと衝撃が来ると、霧がさっと消えていく。
「ともかく、今日は早く寝なさい」
私の頭に手を置いて、子供に言い聞かせる親みたいな顔をしていた。
「うん、わかったよ。また明日ね」
苦笑して、頷く。楓は、手を振る。遠くなっていく足音を聞きながら、私はアパートの階段を上がる。二階の自分の部屋の前に立つと、乾いた夜風が吹き抜けた。
ちょうど綺麗な満月が見えた。
金色の輝きは、鬱々としている影の部分に届いて照らす。
ふと自分の足元を見れば、影が曖昧になって輪郭がぼやけている。それは、現実と幻の境界線を見ているようで、自然と体の向きは変わっていた。
私が向かった先は、古びた扉の前。夢幻バーだった。
何となく来てはみたものの、今更どうしようか迷う。
本来バーはお酒を楽しむための店で、ふらっと来て世間話をしにくる場所ではない。それに、よく考えてみれば、前回の私はさんざん店に迷惑をかけた客だ。
扉へ伸ばしかけていた手は、すっかり重くなる。
そのまま、踵を返したとき正面から人影が見えた。
「彩音さん?」
みつえだった。さらに前回の出来事をはっきりと思い出す。苦々しい気持ちが、重くのしかかった。
「先日は、ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした」
せめて、菓子折りをもって訪れるべきだった。みつえのパンプスがゆっくりと近づき、私の前で止まる。
「ねぇ、少しだけ時間ある?」
顔を上げる。みつえの柔らかい微笑みがあった。
少し歩くと小さな公園があった。ベンチに腰を下ろす。
「どうぞ」
みつえから、コーヒー缶を差し出された。
「いつの間に……」
みつえは、さらにもう一本コーヒー缶を持っていて、カチッと堅い音がした。みつえはくすくす笑って、一口飲んでいく。
「ちょうど休憩中で、コーヒーを買いに行ってたところだったの。ちょうど二本買っていたから。どうぞ」
手の中の温かい缶を見つめる。
「でも、これ純さんの分だったんじゃないんですか?」
「いいの、いいの。後で、買えばいいだけだから」
そういって、ふうっと息を吐く。空を仰ぐ横顔が、さっき綺麗だと思った満月なんかよりも、ずっと儚げで美しいと思った。
「みつえさんって、純さんのこと好きですよね?」
みつえは一度瞬きをする。ゆっくり、私の方へ顔を向けた。
「うん。好きよ。」
満面の笑みから飛び出した、清爽な答えだった。昔は、私もそんな顔をしていたのかもしれない。
「いいなぁ」
うじうじしていても仕方ないのに、さらに本音が零れ落ちそうで、私は空を見上げる。
アパートから見えた満月は、高層ビルに隠れて見つけられない。星も明るい街頭のせいで、一つも見えなかった。
みつえも、私と同じ場所を追いかけるように空を仰いだ。
「私と純さんはね、幼馴染だったの」
『だった』という過去形の言い方が少し気になったが、耳を傾ける。
「純さんの実家は、京都にある蔵元でね。うちの夢幻バーと昔から取引があったの。父と家族ぐるみでずっと仲が良かった。商談しに行くって父が言えば、私は必ずついていったし、純さんも必ず一緒にうちの店にやってきた。純さん優しいから、必ず私の相手してくれて。楽しかったな」
みつえの声が弾んでいた。そのときのみつえの気持ちは、よくわかる気がして私までくすぐったい気持ちになった。口元が緩んでしまう。隣のみつえをそっと観察する。その瞳には、ここから見えないはずの満月が、はっきりと映っているように見えた。
「それからしばらくして、私が十七の時母が病気で亡くなった。その後すぐに父も、病気が見つかった。そんな父は、純さんにあの店を引き継いでくれって頼んだ。そして、その後すぐに逝っちゃった。私、世界で一人だけ取り残されたような気分になってね。泣いてばっかり。純さんは、そんな私にずっと寄り添ってくれてた」
悲しみの中、純という存在がみつえにとってどれだけ大きかったか。
その時その場にいなくても、明らかだった。ずっと瞳の中心に、純が映っている。
「それから、純さんは父の遺言通り、バーを引き継いでくれて、一緒に私も働いてた。そのうちにね、私は純さんのこと好だったことに気づいて、思い切って告白した。そしたら……いいよって、顔をちょっと赤くしながら、言ってくれた」
みつえには鮮明にその時の顔が浮かんでいるのだろう。弾ける笑顔があったが、突然電球がパチッと切れたように、一瞬で消えた。私の視界が、真っ暗になった。そこから、みつえの声が聞こえてきた。
「でも、その次の日。私、倒れちゃったの。病院に運ばれて、いきなり余命宣告された」
みつえの声が、沈んだ。私は金縛りにあったように指一つ動かなくなる。」
「その翌日。純さんは、私に何も言わず勝手にあの部屋に入ったの」
「純さんが……?」
父から、店を引き継ぐ時に聞いて、あの部屋のこと知っていた。
みつえはそう言って、俯いていく。
「私は、何も知らず病院に検査に行った。そしたら、検査ミスでしたって謝られた。キツネにつままれたような気分だったけど、奇跡が起きたって思った。嬉しくて、真っ先に純さんへ連絡を入れたわ」
そしたらね。そう言って、みつえの瞳が大きく揺れた。
「『誰?』って、言われた」
翔と純の顔が、重なっていく。
「その後は……何となく、わかるでしょ?」
私は翔に叩かれた自分の手。無意識に片方の手できつく握る。
「でも……今、みつえさんは、純さんと一緒にいますよね?」
「お互いの仕事場が同じだった接点があったからっていうだけだよ。置かれている環境はそのまま残る。物とか情報は、部屋に入った人側の周りは全部消えるけど、私たちみたいな、願いを託された側には残ってしまう」
『私たち』という言葉が、重く私にのしかかった。
「どうせなら……私も、純さんみたいに、全部忘れちゃいたかったな……」
いつの間にか、夜の空にシミのような雲が一つ浮かび始めている。
みつえは、それを憎むように目を細めていく。
「私も、みつえさんの気持ち、痛いくらいよくわかります……。私も忘れていたら、きっと楽だった。でも……私は、それでも忘れたいって、思えないです。だって、全部忘れたら……今の私は、いなかったと思うから」
翔と積み重ねた日々があったから、今の私を形作っている。
笑うのはピアノがうまく弾けた時だけだった。遠出するときは、コンサートで音楽が流れる場所だけ。
公園に出かけたり、海に行ったりするなんて、頭の片隅にもなかった。翔がいたから、私は頑張っていけた。
「彩音さんは、強いんだね……。翔さん、鍵を返されたって話してたから、てっきり、もう彼のことは諦めたのかと思ってた」
「翔と、会ったんですか?」
「うん。お店に来たの。彩音さんのことが頭から離れないって、苦しんでた。諦めないのなら、どうして鍵を返そうって思ったの?」
「覚えていないのに、鍵を持っているのって、何かフェアじゃないと思ったんです。だから、ちゃんと一旦返して、もう一度託してもらおうって、思ったんです。でも……翔と目の前にしたら、感情的になっちゃって、結局そんなことも言えず、無理やり押し付ける感じになっちゃいました」
翔が私を拒絶した冷たい声が、どこからともなく聞こえてきそうになって、胸にあるネックレスへ、手を置く。
「私は、やっぱり信じたいんです。翔の頭の片隅にほんの少しでも、残っていて、思い出してくれること」
やっぱり、私は翔とちゃんと向き合いたいと思う。
みつえは、そんな私へ気遣いながら言う。
「私もね、最初は彩音さんみたいに頑張ったこと、あるの。『純さんは、私のために夢の部屋で願ってくれた』って。でも、私の言うことは全然信じてくれなかった……。純さんがあの部屋で願ったって、認識してくれたのは、他の人から話を聞いたからで、私じゃなかった。まぁ、赤の他人だって認識されていたから、当たり前なのかもしれないけれど……」
「でも、今なら時間も経って、信頼関係はできてますよね? 今なら、全部信じてくれるんじゃ?」
「私はもう怖くて、今はもう何も言い出せなくなっちゃった。ずっと平行線のままだけど、私はもうそれでもいいかなって、今は思っちゃってるの。ただ、傍にいられればそれで、いい。だから、彩音さんも自分の納得いく道を探して、突き進んでほしい。もしかしたら、彩音さんが私の希望になってくれるかもしれないから」
みつえの切実な願いを手の中の缶コーヒーに込める。
私はコーヒーを一気に飲み干した。




