再会と喪失
「彩音!」
走り出した足は、砂に埋もれてうまく進めない。それでも、藻掻くように進んで、彩音の腕をつかんだ。
「翔?」
驚いて、振り返ってきた頬を撫でる。指先から伝わってきた体温も、表情も、今まで見てきた彩音だった。
そのまま、抱きしめる。
手からじんわりと伝わる温もり。
トクリ、トクリ。静かに脈打つ心臓の音。
夢なんかじゃない。
言葉にならなかった。
砂が、さらりと風で舞いあがった時、腕の中に閉じ込めている背中が、震えた。
「ごめんね」
彩音の声が、波音の奥に消えていく。
抱きしめていた手が痙攣する。彩音はするりと僕の腕から離れ、悲しそうに笑った。
いつの間にか空は夕暮れに染まっていて、オレンジの光が彩音に差し込んでいく。ここに入ってきたときは、太陽が真上にあったのに、現実ではありえない速さで移動している。手に汗が滲んだ。
「なんで謝るんだよ……。やめろよ。ちゃんと、ちゃんと、目の前にいるだろ」
彩音の頬に手を伸ばす。
「これは、夢……なんだよ」
彩音から零れ落ちた涙は、夕日に照らされて、光って落ちた。
「どうして……俺を助けたんだよ……あの時、彩音が背中を押さなかったら、俺も一緒に」
「そんな悲しいこと、言わないで……。辛い思いをさせたかもしれない。それでも、翔には前を向いて生きてほしいの」
「そんなの、俺だって同じだ……俺は、俺は、彩音に生きて……」
彩音がいない現実を認めたくないんだ。
僕は彩音の肩に手を置く。彩音の引き結んだ唇が、震えている。
涙が、落ちていく。空が一気に暗くなった。太陽が、海の向こう側へ沈もうとしている。
彩音は、目を拭う。彩音は、急いで首にかかっていたネックレスを僕の手へ握らせていた。
ネックレスが太陽の最後の輝きを全部かき集めたように、光った。
このネックレスを彩音へ渡した時と同じ輝きだった。
レストランで食事を終えて、ポケットに忍ばせた角ばった硬さを彩音にばれないように何度も確認しながら、浜辺を歩いた。
空は刻々とピンク色のカーテンが引かれ、真っ白な砂浜、海も染まっていく。
誰しも足を止めて、海の奥へと沈もうとしていく太陽を見つめていた。幻想的な景色は、僕の勇気を後押しをしてくれているように思えた。
僕は、少し震える手をポケットへ伸ばし、小箱を彩音の前へ。蓋を開ける。
小さなダイヤが入ったネックレスが、太陽の光を浴びてキラリと光った。
その光が彩音の目にも、光を灯していく。その瞳がとても綺麗だと思った。
「これ、母が亡くなる前に、貰ったものなんだ。是非、彩音にと、思って」
その説明だけでも、十分重いだろう。
だから、その先は、もう少しだけ先の未来でいい。そう思った。
「そんな大切なもの……私が貰っていいの?」
「彩音だからこそ、受け取ってほしい」
突き返されたらどうしようか。一瞬過った不安を彩音は、簡単に吹き飛ばしてくれる。飛び込んできた彩音の衝撃が強すぎて、むせ返っていた。
「ありがとう」
僕の胸に頭を押し付けて、声がくぐもっていた。その振動が、ぬくもりが、ずっと失っていた感覚を取り戻させてくれる。
僕は、心から思った。
彩音を絶対に、失いたくないと。
太陽が沈んでいく。
押し付けられたネックレスから、光が消える。
「翔の大事な人へ、また渡してあげてね」
笑顔の彩音の瞳から、一筋の涙が零れた。
太陽の光は、もう届かない。
そこへ手を伸ばそうとした時、すべてが消えた。
真っ暗な世界。
目が少しずつ暗さに慣れる。ただの空っぽの部屋に僕だけが取り残されている。
そこから出ると、二人の非難めいた視線が、僕に集まっていた。
「僕は何度だって、あの部屋に入って、彩音に会い続ける。死ぬまで、ずっとだ」
「それが、お前の出した答えか」
「あぁ、そうだ」
「夢を叶える方法が一つだけある」
純は僕をじっと見つめる。ずっと冷たかった瞳にほの暗さが加わっている。僕はそれを真正面から見据えた。
「夢を叶えた瞬間、夢を失う方法だ」
「教えてくれ! その方法を」
どうしてか、そこから目が離せなくなる。
「待って!」
突然、みつえが叫んだ。
「意味、わかっているの? 夢を叶えたら、夢を失うのよ? そうなったら、あなたはきっと彼女のことを全部忘れることになる。最悪……死ぬことだってあるかもしれない。それは……夢を叶えたということになるの?」
「俺は、彩音がいないのなら死んでいるのと同じなんだ。でも、彩音は違う。俺がいなくても、ちゃんと前を向いて行ってくれる。だから、大丈夫。それに……奇跡が起こって、俺は生きたまま、しかも彩音を覚えている可能性だって、ゼロじゃないだろ?」
冗談めかして言ったが、本気でそう思った。
これだけ思っているのならば、彩音を忘れるなんてことにならないだろう、と。
「なに、それ……そんな、叶いもしない奇跡に頼るなんて! ……どうして、みんな、自分勝手なの?」
みつえのきつく握りしめている手が震える。どうしてそんなに感情的になるのか、わからなかった。彩音に同情してなのか。それとも、僕の勝手を批判してなのか。
どちらにしても、僕には関係のないことだ。
「教えてくれ。頼む」
僕は、純に向き直り、深々と頭を下げる。
純は無言だった。しかし、僕にはわかった。
それが、肯定なのだと。
ずっと聞こえてこなかった流れていたジャズピアノが、流れてくる。
曲調は全く違うのに、まるで彩音が弾いてるようだった。
その曲が終わるころ、純は言った。
「お前の連れとの思い出の品を、全部ここへ持って来い」
「わかった」
僕は、店を出てアパートへ戻る。棚に置いてある小箱。蓋を開けると二人分のチケットや、パンフレットなどが顔を出す。
それら、すべてを鞄に詰め込んだ。そして、僕は再び夢現へ向かい、純と向き合う。
純は、何も言わなかった。
無言のまま体を夢の部屋へ向け、歩き出す。
揺れる純の影を踏み外さないように、慎重に辿る。
たとえ、彩音のことを忘れたとしても、僕はきっと思い出す。
僕は願いを込めながら、純の影を追った。
純はドアの前で立ち止まり、カギを差し込んだ。
鍵を回す。何かが切り替わったような重々しい音が、響いた。
「これで、夢の部屋とは違う世界に切り替わった。お前が持ってきた思い出の品を、全部持って中へ入れ。その先で何が起こるかは、俺にもわからないぞ」
重い一言だ。純とみつえから、厳しい視線が送られてくる。
僕は、一切迷わずドアへ真っすぐ手を伸ばした。
冷たい感触。
扉が、開く。
そして、僕はその中へ踏み出し、彩音のすべてを手放した。




