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夢の果てで、またいつか  作者: 野本


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3/7

夢現

 横を歩いていた彩音が、突然背中を押してきた。

 よろめいて、一歩前へ押し出された。

 その瞬間、地獄の雨が背後で降った。

 

 アスファルトが削れる轟音は、世界を揺らし、すべてを粉々にしていた。

 まるでずっと遠くの世界で起きている出来事を、見ているようだった。むき出しの鉄骨が無様に重なり合う。

 それが現実なのだと思い知らされたのは、少し離れた場所から聞こえてきた悲鳴だった。

 遠くにいたはずの自分が、腕を掴まれ強制的に引き戻される。

 

「彩音……?」

 彩音がいたはずのその場所に、重々しい鉄骨が冷たく鎮座している。

「彩音……! 彩音!」

 そこへ手を伸ばそうとした時、誰かが強引に僕の腕を引っ張った。

「まだ上から降ってくるかもしれない!」

「彩音が……彩音が、いるんだ!」

 叫んだと同時だった。さらなる鉄の塊が降る。僕は、無理矢理その場から引き剥がされる。

 爆弾が破裂したような音が、耳をつんざいた。抉られたアスファルトの粉末が、立ちのぼる。


 神様は残酷だ。

 母が死んだ時も、そうだった。

 いくら願っても何も聞き入れてくれやしない。いつだって、僕に淡い希望を持たせては、突き放す。

 残酷な現実ばかり、まざまざとみせつけられる。

 

 男は、無言のまま僕を引き摺って歩いていく。積み重なった鉄骨が遠くなっていく。

 まるで、底なし沼に沈んでいくようだった。全身の感覚が消えていく。行き着く先は、地獄でも構わない。

 ただ、彩音さえ生きてさえいてくれれば。

 

 男は、古びた扉を開け、僕を強引に中へ押し込んだ。

 現実と切り離されたような暗い世界から、女性の声が聞こえた。

「お帰り、純さん。えっと……どちら様?」

「みつえ。こいつを夢の部屋に入れる」

 乱暴に突き出される。感情の糸が切れた空虚な視界の真ん中に映った。みつえと呼ばれた女性が、目を丸くしている。

「え? ちょっと待ってよ、純さん。状況が読み込めないんだけど……」

 みつえから説明を要求されている。しかし、その男——純は、僕の胸ぐらを掴んで、鋭い目で僕を睨んだ。

「お前の連れは、死んだ」

 みつえが、息をのむ気配がした。色濃い影が、店内に広がっていく。

「何言ってるんだ……彩音は生きてる……」

 そうだ。戻らないと。彩音のところへ。

 爪先を出口へ向けようとしたとき、けたたましいサイレンが、迫ってくる。純に言葉に、同情じみたものが加わる。

「いい思い出だけ、残せばいい」

「さっきから……何なんだよ……! まるで、過去みたいな言い方するなよ! ついさっきまで、ずっと彩音と話してたんだ!」


 歩きながら、ずっと彩音はぴょんぴょん跳ね回っていた。

「ねぇ、もしも本当に『夢の部屋』があったら、翔は入る?」

 その質問に僕は、迷わず首を振った。

「俺は、彩音みたいに、ピアニストになりたいっていうようなはっきりした夢はない。入っても意味ないよ」

「じゃあ、私がそんなことをいう翔の分も引き受けて、夢の部屋とやらに入るとするか。その後の感想は、翔の家へ一緒に帰って、家でゆっくりお茶でもしながら感想を聞かせてあげる」

 彩音はおどけてそう言っていた。

 ついさっき。ほんの数分前の話だ。

「たった数秒前でも、過去は過去だ」

 冷酷な事実を喉元に突き付けられる。走馬灯のように過去の出来事が流れ込んできた。


——二年前。


 ずっと色を失った世界で生きていた僕の日常の一コマ。

 そこで、僕は彩音と出会った。


 僕の世界にほんの少しだけ、彩りを付ける場所。それが、本だった。

 その日も僕は、商業施設の一角にある大型書店へ向かっていた。

 その時、ふわりと風に乗って聞こえてきたピアノの音色。

 夕暮れ時。ちょうど空腹を感じ始めたとき、ふと出汁の香りが漂ってきて、引き寄せられる。そんな感じだった。

 僕のつま先は、勝手に方向を変えていた。


 ぼんやり聞こえていたピアノが、次第に明瞭になっていた。

 辿り着いた場所は、こじんまりとした楽器屋。

 その店の中央に置かれているピアノの前に、人だかりができていた。

 分厚い壁を飛び越えて、耳に届いた。


 クラシックやピアノに疎いが、その曲だけは知っていた。三年前、病気で亡くなった母が、毎日のように家で流していた。

 ショパンのノクターン。

 元気だったころの母の笑顔が浮かんで、ふいに目頭が熱くなる。


 母の死は、僕の半身の感覚を奪っていった。

 ずっと二人きりで暮らしてきた日々の記憶。僕が生きている理由。

 空高く昇っていく魂と共に消えていった。その時は、ただ真っすぐ立ち上っていく煙を、じっと見つめるだけで何も込み上げてくるものはなかったのに。奏でられるピアノの音色が、失っていた神経を痛みを伴って呼び覚ましていく。

 演奏が終わる。小さな楽器屋から響く拍手は、僕の足元を揺らしていた。忘れていた涙が、滑り落ちた。

 

 人だかりの壁が薄くなっていく。その隙間から、演奏者の顔が見えた。

 小柄な彼女は、少し顔を赤らめて、お辞儀をしているところだった。

 しばらくすると、人の壁はきれいに取り払われ、彼女は弾いていたピアノの鍵盤を丁寧に拭いていた。僕の足は勝手に動いていた。


「あなたのピアノ、世界で一番好きです」

 気付いた時には、僕は彼女の前にいて、ずいぶんと恥ずかしいことを口走っていた。

 手を止めた彼女は、目を丸くして僕を見つめてくる。

 こんな大胆なことが出来てしまった自分自身が、一番驚いていた。

 しかし、相手へ一度でも耳に届いてしまったものは、どう足掻いたって取り消すことはできない。せめて、軽薄な人間にだけは思われたくない。その焦りが、よくなかった。

「すみません。変なことを……でも、今のは正直な感想で、決して嘘ではないのですが、なんというか……昔、その曲を聞いたことがあって」

 取り繕おうとすればするほど、泥沼にはまっていた。今すぐに、穴に入って埋めてほしい気分だった。そんな僕を彼女は、嘲笑うことはなかった。

「ありがとうございます。そう言ってくださって、今とっても嬉しいです」

 そう言って、手を差し出す。僕は、少しぎこちなくその手を握った。

「初めまして。私は、影浦彩音といいます」

 ぱっと華やぐ笑顔だった。

「よかったら、また聴きに来てくださいって……言いたいんですけど、今日は店長の気まぐれで急に弾けって言われただけで、次は未定なんです。あ。でも、お客様からご要望あったので、次お願いしますって言ってみますね」

「ぜひ。絶対、聴きに来ます」

 その約束は、結局店長の気まぐれというもので、果たされることなく終わっていったが、そこから僕らは始まった。

 気づけば、彩音はいつの間にか僕の隣にいて、いつも楽しそうに、危なっかしく跳ね回っていた。

 



 どんどん色を失って真っ暗になっていく店内。

 狭窄していく視界。その中心に、バーカウンターがあった。

『夢の部屋に入ると、夢が叶うかどうか一度だけわかる』

『叶う夢は真っ暗で、叶わない夢は鮮明なんだって』

 

 狭まっていた視界が急速に広がっていく。

 薄暗かったはずの店内が、一段明るくなる。

 彩音が言っていた部屋だ。

 同化している扉が、まるで僕を呼んでいるように見えた。

 その瞬間、僕は走り出した。

 

「おい!」

「ダメよ!」

 二人の声を振り切って、バーカウンターの中へ。同化しているドアを引きちぎるように開ける。


 店内のはずなのに、目が眩んだ。

 刹那、一面空と海の境目のない見渡す限りの青が広がった。

 その景色に見覚えがあった。象徴的な真っ白な砂浜。彩音の誕生日も兼ねて、島へ旅行へ行った海。

 その海を眺めているのは、紛れもなく彩音だった。


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