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夢の果てで、またいつか  作者: 野本


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2/7

恋人だけが、私を忘れた

 叩かれた手が痛い。頭の奥にずっとあった鈍い痛みも襲ってくる。

 一体、何が起きているの? 

 大きく何度も深呼吸をして、頭に酸素を送り込む。

 落ち着け。何かがおかしくなっている。

 それは、いつから始まった?

 

 私は翔のことをちゃんと覚えている。

 初めてのデートのこと、喧嘩をしたこと、嬉しかったこと。首元へ手をやる。胸で光るネックレス。確かにある。数々の思い出の中で一つだけ抜け落ちているもの。それは、昨晩だ。

 電車を乗り継いで、銀座三丁目で下車する。

 記憶がないのは、翔と食事をした後。夢の部屋があるというバーへ向かっている途中から。

 まずは、翔と食事をしたイタリアンレストランの前まで行き、そこから歩みを進める。

 楓がくれたバーの地図を開きながら、翔と歩いた道筋を辿っていく。

 

 昨晩は風が強かった。今夜は、ずいぶんと穏やかになっている。

 風に乗って飛ばされてきた葉が、地面を転がっていく。

 まるで昨晩の私を見ているようだった。

 ショックで忘れていた涙が、不意にこみ上げてきそうになった時、ざわっと真横で音がした。横を見れば、足場が組まれ防音シートで覆われているビル。

 再び吹いてきた風で、シートが靡く音。そこに黄色いテープが張られていて、危険という文字。

 そして、地面のコンクリートには、無数の抉られた跡。

 その瞬間、今朝見た悪夢が、鮮明に頭の中で再生され始めた。

 鉄骨の雨。薄れる意識。真っ赤な血。そして、翔の叫び。全身の感覚が消えていく。


 歩道の真ん中で立ち止まった私に、歩行者がぶつかった。

 その衝撃で止まっていた呼吸が戻り、肩で息をする。

 感覚が消えた両手で、スマホを取り出す。楓の名前をタップすると、ワンコールで繋がった。

 繋がった電話だけが、私という存在を認めてくれているような気がした。


「楓……私……私のことわかるよね?」

『ど、どうしたの?』

 楓の焦ったような返答が来て、縋るように質問を重ねた。

「私……生きてるよね?」

「当たり前でしょ? ……彩音、大丈夫? 何かあった?」

「わ、わたし、昨日翔とバーに行こうとした……その途中で、私、鉄骨の下敷きになった……」

「は? 何言ってるの? そんな大事故に巻き込まれていたら、病院行きどころか、死んじゃってるでしょ?」

 だから、私は確かめたいの。……私、あの時……死んだんじゃないかって。

 喉まで出かかった言葉は、目に溜まり始めた水の中に溶けていく。

 そして、楓は言った。

『大丈夫だよ。彩音。あんたは、ちゃんと生きてる。昼間大学で会った彩音は、幽霊なんかじゃなかった。本物。私が保証する』

 力強い声だった。手を叩かれた痛みが舞い戻ってくる。

「でも……翔……私のことまるで、覚えていないみたいなの……」

 たっぷり一拍おかれる。楓は言葉を慎重に選ぶ気配がした。

「彩音。落ち着いて聞いて。大学でも言ったけど……彩音が言っている『翔』って、誰のこと?」

 目に溜まっていた涙が、引いた。

「光平翔……三年前から何度も話してるし、会ってるでしょ?」

「……私、その名前初めて聞いたよ」

「何、言ってるの? 二カ月前の大学のコンサートにも、翔が来て、会ってるじゃない!」

 私の叫びは、人々の雑踏を切り裂いて、街中に木霊する。

 大学ホールで開かれるコンサートでは、私よりも先に翔を見つけて、場所を教えてくれたのは楓だ。

「わかった。一旦、落ち着こう。彩音は、今どこにいるの?」

 どうしても溢れてくる涙のせいで、楓の声がずっと遠くで聞こえてくる。

「ごめん。……また、かけ直す」

 私は、電話を切り、その場にしゃがみ込む。点々と水の跡を作って、アスファルトがどんどん黒ずんでいく。

 

 行き交う人々は、そんな私を遠巻きにして、通り過ぎていく。

 足が震えて、立っていられなくなる。その場で蹲りそうになった時、誰かの手が私を支えた。

「大丈夫……ですか?」

 若い女性が眉間に皴を寄せて、覗き込んでくる。私は、反応できない。

「こんなところで蹲られていても、迷惑だ。みつえ、こいつ連れて行くぞ」

 私は声をかけてくれている女性の顔の横から足が見えた。みつえと呼ばれた女性は、隣の男を見上げて頷く。みつえは、再び私へ顔を向けた。

「私たちのお店が、すぐそこにあるの。落ち着くまで、そこにいて? 大丈夫。変なお店じゃないから」

 みつえはにっこりとほほ笑む。男は、私の腕をとり、痛いくらいの力で強制的に引き上げられていた。


 連れていかれたのは、古びた扉の前だった。横に立っている看板には『夢現 Mugen』と書かれていた。


 みつえが扉を開ける。カランとカウベルが鳴る。

「こっち」

 みつえが手招きをする。私は頭を下げて、その中へ足を踏み入れた。

 

 みつえはカウンターの中へ入って、席を勧めてくる。言われるがままに、私はバーカウンターに腰を下ろすと、皮張りの椅子が擦れてぎしりと鳴った。

「お水、どうぞ」

「……ありがとうございます」

 コップを差し出され、水を一気飲みする。熱くなっていた頭が冷やされていく。

「少し、落ち着いた?」

「はい……ご迷惑おかけして、申し訳ありませんでした……」

「まともな人間らしくて、安心したぜ」

 純の嫌味っぽい一言に対して、みつえが睨んでいる。

 二人のやり取りを見ていたら、少しずつ視界が広がった。

 カウンターの端に乗せられているレコードが、くるくると回っていて、そこからピアノジャズがゆったりと流れている。

 店全体の半分の面積をとったバーカウンターがある。その奥。壁と同化している扉。

 私は立ち上がっていた。


「もしかして……夢の部屋……ですか?」

 流れていたジャズが、終わる。レコードの針がゆっくりと、上がっていく。

 みつえが、その針をじっと見つめる。

「もしかして、翔が……光平翔という人が、ここに来たのでは?」

 その瞳がハッと見開いた。横でグラスをチェックしていた純の手も止まっている。

 そして、二人の視線が、私へ集まった。


 みつえの大きな瞳が、揺れている。

 純は、自分を落ち着かせるように手元へ視線を戻し、グラスを置いた。

 グラスが微かにキンと高い音を立てる。

「あぁ、来たよ」

 純は、次のグラスを手にして、見つけた汚れを丁寧に拭き取りながら、そういった。

 翔を知っている人が、いる。私は、勢いよく立ち上がる。

「いつですか?」

「昨晩、遅くだ」

 あの事故の後だ。

「……その時、翔は何か言っていましたか?」

「やっぱり……彩音、さん……なのね」

 みつえが、長い睫を伏せていく。目の下に深い影が出来上がっていく。その影に、何が隠されているのか。

「翔が……私のことを話したんですか? 私のこと覚えていたんですか? 何て言っていたんですか?」

「落ち着け」

「混乱するのは、わかるわ。でも、ちょっとだけ、深呼吸。ね?」

「……ごめんなさい」

 みつえは、笑顔を浮かべていたが、視線を合わせないようにしている。

 悩んでいるみつえを見て純が代わりに、話の続きを引き取っていた。

 いいか、取り乱すなよと、純に釘を刺され、私は頷く。

「あんたが立ち尽くしていた場所は、風に煽られて鉄骨が降ってきた場所。……お前は、その事故に巻き込まれた」

 体の芯から冷えていく。あの時の死の絶望がぶり返してきそうだった。

「やっぱり、私あの時、死んだの……?」

「今、あなたは生きているから。安心して」

 真っ暗な世界へ引きずり込まれそうになるのを、食い止める様にみつえが私の背を摩ってくれる。

 そのぬくもりを感じながら『今』と言った言葉に赤線が入っていく。純は、その先を続ける。

「その現場にいた翔を、俺がここへ連れてきた」

「あなたが?」

 ぶっきらぼうで、冷たい。そんな印象なのに、そんなことをした純が意外だった。

「あいつが気の毒すぎて、見ていられなかった。落ち着かせようと思ってな」

 純の顔が僅かに歪む。

「それが、間違いだった。あいつは、目敏く夢の部屋を見つけやがった」

 壁と同化している扉を見つめる。

 翔が迷信だといった部屋。

 あそこに翔が、入った?

「夢の部屋って……夢が叶うかどうかわかる部屋、ですよね? 確か、叶う夢は真っ暗で、叶わない夢は鮮明に……」

 『随分と残酷なルールだな』

 翔の声が、胸に突き刺さった。

 まさか。

「翔は、私と……一緒にいる夢を……見たの?」

 みつえの眼が悲しみに満ちていて、私を残酷に貫いていく。

 ピアノの弦が切れたように、音が消えた。

 自分の息の乱れだけが、大きく響く。

「……俺が、夢を叶える禁忌の方法を教えた」

 純の声だけははっきりと聞こえた。

「夢を叶えた瞬間、夢を失う方法を」

 立っていられなかった。体が、椅子の中へ沈む。

 その振動で、コップが倒れた。

 こぼれた水は、ツーっと細い水の道を作って落ちる。

 光の届かない床に、黒い水溜りがゆっくりと面積を広げていく。

 


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