鉄の雨が降った夜
穏やかな夜の空だった。そこから、ぽつりと鉄の塊の雨が降った。
その時、私ができたことは、隣の背中を押すことくらいだった。
私は成すすべなく、落ちてきた鉄骨中に埋もれる。
口の中に鉄の味が広がった。息ができない。視界の端から真っ赤に染まって、黒くなっていく。ペンダントが、その中へ消えていく。
真ん中だけ残った視界。映った見慣れた人影。
——彩音!
翔。そんな顔、しないで。
私の声は、届かない。
真っ暗な世界が、私を飲み込んだ。
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ぱっと目を開いて、飛び起きる。
体を確認してみる。二日酔いのような頭痛くらいで、何も異常はなさそうだった。未だに脈拍は早い。それは生きている証拠だ。あれは、ただの夢。
強張っていた肩の力を抜いて、ベッドから出る。
カーテンを開けると、雲一つない晴天が広がっていた。
机の上にのっているスマホへ手を伸ばす。メッセージを開いて、光平翔の名前をタップする。翔と待ち合わせをしていたとき、送っていた他愛のないやり取りが飛び込んできた。
『早く来てよ』
私が急かし、翔が『もうすぐだから』と、子犬に待てと命令しているような画像が添えてある。
ふふっと口角を上げながら、お風呂へ向かった。
汗を流せば、体中に纏わりついていた悪夢が流れていく。
身なりを整え、ネックレスを身に着ける。
そして、部屋を出た。
大学に到着し、講義室の一番後ろを見やる。長い黒髪をひとまとめにしている岩谷楓を見つけた。
「楓、おはよう」
「おはよう」
その横に腰を下ろし、教科書を取り出す。その上に、楓の手が乗った。驚いて顔を上げると、目がキラキラ輝いている。私は首を傾げながら、その手をどかす。今度は、楓がぐいっと顔を近づけてくる。
「彩音、昨日本当に行ったの?」
私はのけぞりながら楓を押し返す。
「昨日って、何の話だっけ?」
「何って……銀座のバーにあるっていう噂の『夢の部屋』! 本当に夢が叶うかどうかわかるっていう」
夢の部屋。
ノートを取り出そうとした手が止まった。
楓の目が曇る。
「どうした? 大丈夫?」
「あ……うん。平気。えっと、昨日……だっけ?」
鞄の中でノートを掴みながら、昨日の記憶を掘り起こしてみる。
昨晩は、翔と待ち合わせをして店で夕飯を一緒に食べた。
その後、強めの風が吹く中、私はリズムをとるようにステップを踏む。
「夢の部屋に入ると、夢が叶うかどうか一度だけわかるんだけど、その結果の知り方が特殊らしいの」
「特殊?」
「叶う夢は真っ暗で、叶わない夢は鮮明なんだって」
「叶わない夢を鮮明に見せるなんて……随分と残酷だな」
少し後ろを歩いている翔から、そんな声が飛んだ。
私は足を止め、振り向いた。
「どうして?」
「だって、叶わない夢が鮮明に見えたら、逆に諦めきれなくなると思わないか?」
「そっか。確かにそうだね。そこまで深く考えていなかった。でもさ、それでも、やっぱりその部屋に入ってみたくなっちゃうのが、人間ってものよね」
「ま、どうせそんなの迷信に決まってるけどな」
「これだから現実主義者は……もっと人生楽しもうよ」
「俺は、現実を十分楽しめてるから、いいの」
翔はいつも俯瞰して見てくる。それは羨ましくもあり、ちょっと損しているなと思う。
翔が、私の手を握った。
そんな彼を見上げ、細められている透き通った茶色い瞳に、私が映り込んでいる。
「それに、そんなの頼らなくたって、彩音はちゃんとピアニストになれるよ」
翔の声が、心臓の奥にまで染み渡ってトクンと脈打ち、巡っていく。
透き通った瞳。手のぬくもり。柔らかい声。頭の中で、心地良い三重奏が流れる。
「いつもそうやって言ってくれるから、私は自分が行こうとしている道を疑ってなんかないよ。夢の部屋へ行ってみたいって思うのは、私の好奇心。もう、そこら中暴れ回って抑えきれないの」
「はい、はい。そこも、ちゃんと理解してますよ」
翔は、そう言って笑った。
そう。そんなことを思いながら会話し、私たちは夢の部屋のあるというバーへ向かっていたはずだ。そこまでは覚えている。
だが、そのあとのことは、プツリと糸が切れたように記憶がない。
「おかしいな……思い出せない……」
頬を撫で、腕を摩り、いろんな場所へ刺激を与えてみても、引っ掛かりさえも生まれてこない。
まるでその部分だけ、切り取られてしまったように。
楓の目が、だんだん細くなっていた。
「もしかして……バーには行ったけれど、また飲みすぎて記憶飛ばしたパターンなんじゃないの?」
指摘されて、うっと喉の奥が詰まった。
『俺以外の人間とは、絶対酒を飲むな』と、翔から厳命を受けているくらい、酒に弱い。あっという間に酔っぱらって、記憶を飛ばしてしまう。
昨晩、夕飯を食べた時も一杯だけ乾杯しようと、ビールを飲んでいる。
「もしかしたら、そうかも……バーに行ったら、絶対お酒飲むよね。だとしたら、許容量オーバーしてるわ」
忘れかけていた二日酔いのような頭痛が、ぶり返してきて、顔を顰める。楓は呆れ返っているようだった。嫌味っぽい溜息が聞こえてくる。
「やっぱりね」
「しまったな……」
もしかして、昨晩翔に迷惑かけたのかもしれない。額を抑えながら、スマホを取り出し翔をタップする。
『昨日の夜、大丈夫だった?』
当たり障りのない文面を翔へ送ってみると、楓が目をぱちぱちさせていた。
「昨日、誰かと一緒だったの?」
「翔だよ」
楓には、明け透けに何でも話しているから翔の存在を知っている。
意図せず私がのろけてしまうから、最近はよくしかめっ面をされてしまう。今回もそうなるだろうと思ったのだが。
「翔って、誰?」
楓が真面目な顔をしていた。教室の喧騒が一瞬遠のく。
楓は、いつもこうやって私をからかってくる。
今朝の悪夢のせいで、神経が過敏になっているみたいだ。
「今日は頭痛くて、頭回らないから変な冗談やめてよね」
私は軽く睨む。楓の反応が薄いことは、気になったが、そのタイミングで教授がやってきていた。
教室内に、音楽が流れ始める。
軽やかなメロディは、昨晩頭の中で流れた三重奏とよく似ている気がして、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
しかし、授業中、何度スマホを確認しても、翔へ送ったメッセージは既読がつかない。
そのせいで、すぐに波立っていく。何とかして、いつもの私を取り戻したかった。
「楓、私ちょっとピアノ弾いて帰るね」
「オッケー。じゃあ、また明日ね」
私は、そのままピアノ室へ寄った。ピアノは、いつだって私を落ち着かせてくれる。
ピアノの前に座り、手を置く。
まず明るい曲を弾いてみる。しかし、ミスタッチばかりで、気分がさらに落ちてしまいそうだった。ならば、無意識に浮かんできた曲を弾いてみよう。鍵盤に手を置く。勝手に動いた。
ショパンのノクターン九番。
「あなたのピアノ、世界で一番好きです」
流れていく曲から、翔と初めて出会った日に、言われた言葉が聞こえてくる。
私の大好きな曲。
今までで一番感情が乗って、切なさと甘さが一緒に流れ出していた。最後の和音。
弾き終えた後の静寂。すっかり心は凪いでいた。
鞄を手にし、立ち上がる。
そのまま電車へ飛び乗った。
「暇なときは、いつでも来てよ」
翔が照れ臭そうにしながら渡してくれた合鍵。そこに大きめの傷を見つけた。
そこから、一度だけ大きめの喧嘩をした時の苦々しい記憶が蘇りそうになる。
私はギュッと握りしめて、閉じ込めた。
駅に到着し、歩いて十分ほど。
年季の入ったアパートに翔の部屋はある。錆びついた階段を登り、二階の端の部屋のドアに鍵を差し込む。
ドアはすんなりと、私を招き入れてくれていた。
部屋に上がり廊下を進む。すぐにリビングがある。急いで外出したのか、食器が机に置きっぱなしになっていた。それを洗い終えて、本棚へ爪先を向ける。そこに収められている小さな小箱。二人の思い出の品は、そこへ仕舞われている。
手を伸ばしそっと蓋をあけた中身は、空だった。
曲名だけ書いてある白紙の楽譜を見せられたような気分だった。
きっと、移し替えただけだ。別のどこかにしまってあるはず。明けっ放しの箱を置いて、棚の隅々まで調べようとした時、カチャリと音がした。
帰ってきた。
不安を踏みつぶしながら駆け足で玄関へ向かう。ちょうど、鍵を閉めようとしているところで翔の顔は見えない。でも、背中は、紛れもなく翔だった。
当り前なことなのに、やけにほっとする。
「お帰り」
大声で言ったつもりはないのに、驚いたように肩が大きく跳ねた。
私がいるとは予想していなかったのかもしれない。これまでも事前連絡はしないけれど、今日はした方がよかっただろうか。やっぱり昨日私が何か大失態をして、怒っているのだろうか。
明けっ放しだった空箱がふいに脳裏に蘇る。
それを振り払いたくて、明るく続けた。
「メッセージ送っても既読にならないから、来ちゃったよ」
いつもならば、彩音は気まぐれだからなぁと、少し嫌味っぽい笑顔が返ってくるはずで、もし怒っているのならいきなりの説教が始まるはずだ。
どの方向からも責められてもいいように身構える。
しかし、いくら待っても反応がなかった。
背を向けたまま、動かない。
「翔?」
調整に失敗したヴァイオリンのような声が出た。
私はそっと背中へ近づき、手を伸ばす。翔が勢いよく振り返る。そして、私の手を弾いた。
今日一日ずっと、ぼんやりとした違和感がずっとあった。それが、翔の手によって鮮明になる。
乾いた音が響き、手の痛みが全身に広がって痺れていく。それ以上声が出なかった。
整った顔立ちに、茶色の瞳。紛れもなく翔本人で間違いない。それなのに、研がれた双眸は敵意が浮かんでいる。そして、翔は言った。
「あんた、誰?」
刺々しい声が、私の肺を切り裂いていく。
上手く呼吸ができない。
「何かの、冗談だよね……? 私、影浦彩音だよ?」
私が笑い飛ばしてしまえば、それがきっと現実になってくれる。そう思うのに、頬の筋肉が硬直して微動だにしてくれなかった。
「は? 俺はあんたなんか、知らない。頭おかしいんじゃないのか? ……今なら、通報しないでおいてやる。今すぐ、出ていけ」
いつもの優しく包み込んでくれる手が、腕を掴む。力が強くて、骨がぎしりと悲鳴を上げる。
そのまま私は、玄関の外へ突き出されていた。
冷たい施錠音は、私のすべてを拒絶しているようだった。




