彩音の代償
大学で退学届を出した後、乗り込んだ新幹線の窓に、バチバチと雨が激しく叩きつけている。
雨粒で濡れていく景色を空虚になった心で見つめていた。
今向かっている先は、最も顔を合わせたくない両親のいる場所。これから、私はどこへ向かっていくのだろう。
私が積み上げてきたものがガラガラと崩れ始めたのは、昨晩の夜遅くの音楽室でピアノを練習している時だった。
鍵盤を叩いていた手が突如、動かなくなった。手を止めて、手をじっくり観察してみたが、一見どこも異常はなさそうだった。それなのに、突然神経が固まってしまったかのようだった。
ただ、手がつっただけだろう。一旦首と肩を軽く回して、ピアノの前から離れると、ひきつっていた手は、すぐに元に戻ってくれた。
ほっと息をついて、気を取り直して再びピアノの前に座った。しかし、再び手が動かなくなる。
それを何度も繰り返す。時間はいたずらに過ぎて行って、冷たいものがゆっくり私の背中を這い上がってくるばかりだった。
段々、目の前にあるピアノが蹲った黒い悪魔のように思えてきて、どんどん怖くなった。
息も上がってきて、逃げるように音楽室を出た。
自分の部屋へ向かう夜道は真っ暗だった。
私には、ピアノしかない。それを失ったら、私はどうしたらいい? ずっと恐れていたことが、現実になる恐ろしさは、私をどん底へ引きずり込んでいく。
なんでもいいから、誰かに見つけてもらいたいと思った。
闇の世界にさ迷ってしまった私を、誰でもいいから出してほしい。藁でもいいから、縋りたかった。
その時、電話が鳴った。私は、その光に縋っていた。着信の表示をろくに確認することなく、手にしたことが、すべての間違いだった。
「もしもし」
『彩音、聞いたぞ。今度、国際コンクールに出られるって』
『ご近所の方が大騒ぎで、教えてくれたの』
聞こえてきた声は、父と母だった。
『彩音がバイトしている言の葉楽器で、この前コンサートしただろ? その映像がSNSで流れてきてね、それをご近所さんが、教えてくれたんだよ!』
『そのポスターに国際コンクール出場って書いてあったっていうから、もう決まったんでしょ? どうして、早く教えてくれなかったのよ!』
二人の弾んだ声は、地獄の中で流れている音のようだった。開けたドアから真っ黒い手が私の手を掴んで、引きずり込んでいく。
『それで、コンクールはいつするんだ? 場所は、ヨーロッパだろ?』
『何を着ていけばいいかしら?』
目の前がもう何も見えない。
もう、どうでもいいと思った。
「私、ピアノ辞める」
『面白い冗談だな』
乾いた笑い声がする。真面目に取り合うことなく、ご機嫌な声は続く。
『飛行機のチケットは、もうとっておいた方がいいよな?』
「明日、退学するから」
それだけいって、電話を切り、電源を落とした。
スマホの表示も私と同じ、暗闇の世界になる。そのまま、道をふらふら歩いて、アパートへ辿り着いた。
私の部屋の前に誰かが立っていた。
理由はわからなかったが、男性らしき後ろ姿を見て、ドキリと心臓が高鳴った。
「影浦彩音さん?」
振り返ってきたその顔を見た途端、膨れ上がった期待がしゅーっと音を立てて、萎んでいく。
白髪交じりの少し目の吊り上がった細身の中年男性だった。
私は、いったい誰を想像していたのだろう。
「はい」と答えると、その男性の目が緩んだ。
「私、ここの大家。親御さんからたった今、連絡が来てね。娘さんに電話しても、出ないから部屋に行って確認してきてほしいと頼まれてね」
ここが事故物件にでもなったら、とでも思ったのかもしれない。迷惑そうにしかめっ面をしながらも、安堵しているようだった。
「君の親御さんは、心配症なんだね。電話が鳴りっぱなしで、困ったよ。すぐに連絡入れてくれよ。煩くてかなわないよ」
これ見よがしにため息をついて、引き上げようとする。その背中を呼び止めた。
「私、今この部屋を出ます。荷物、少ないですし。残っているのは、全部処分していただいて構いません。今月の家賃は全額、お支払いします」
嫌々だった顔が、少し明るく引き締まった。黒目をぐるりと一周させて、ポンと手を叩いた。
「君が出て行ってくれるのなら、ちょうどよかった。息子と家で大喧嘩してね。家から追い出したかったところだったんだ。どのくらいで荷物まとめられる?」
「一時間もあれば」
「そう。一時間後に息子を向かわせるから、鍵を引き渡してくれ」
「わかりました」
私が頷くと、大家はすがすがしい顔をして、歩いていく。私はそれから、部屋の荷物をスーツケースに全部まとめて入れた。そして、時間きっかりに釣り目の大家の息子がやってきた。
鍵を渡して、私はそのまま一度二十四時間営業のカラオケ屋に入った。そこで軽く仮眠をとる。
翌朝、スーツケースを駅のコインロッカーに預けて、そのまま大学の教務課へ向かった。
そこで退学届けの紙をもらい、記入する。
書き終えた紙を手に、教授室のドアを叩く。
すぐに教授が顔を覗かせる。そして、開口一番「ご両親から連絡が来たぞ」と言った。
私は、事情を一気に説明し「ピアノを辞めることにした」と告げた。
「国際コンクール辞退だけでも、驚きだったのに、信じられん」
教授の呟きが聞こえた。
そういえば、どうして断ったのだろう。自分の手を見つめる。
「だが、手が動かないというのは、一時的な話かもしれんだろう。一度、座ってみろ」
ピアノの椅子を促され、仕方なく前に座る。鍵盤に手を置く。
そんな私の状態を見て、教授の顔は一層険しくなっていた。
「精神的なものかもしれない。長期休学して様子見をするという手もある」
教授は髭を撫でる。私の心はもう決まっていた。
「いえ、もう決めたことなので。今まで、ありがとうございました」
私が頭を下げ、退学届けを教授の前に差し出す。
教授は無言で書類を受け取り、唇を噛んだ。
「一旦、預かる。このこと、ご両親にしっかり報告しなさい。これから、向かわせると連絡しておく」
教授の言葉は、私の行き先を正しく示していた。
教授は、そのまま背を向けていく。
私は、一礼して教授室を出て、ドアを閉める。荒々しいピアノの音色が、ドアの隙間から漏れていた。
そのまま、大学の校門を潜り出ようとしたとき。
「どうしたの? 一限、これからでしょ? 忘れ物?」
今は、楓には会いたくなかった。
そんな思いを押し殺して作り笑いを浮かべる。
楓には、両親の話をしたことがなかった。
そして、「実はさ」となるべく軽く聞こえるように、すべてを話した。
楓は、初めて私の背景を知り、終始驚いた顔で涙さえも浮かべていた。
話せば、こうなることはわかっていたから、嫌だった。
「そういうことで、ちょっと実家に行ってくるね。またね」
私は、楓に笑顔で手を振る。
颯爽と歩き出したはずなのに、全身は行きたくないと、悲鳴を上げるばかりだった。
電車に揺られている間、空はどんどん分厚い雲に覆われ、新幹線に乗り換えるころには、外は大雨になっていた。
「……会いたい」
ため息と一緒に溢れ、驚く。
今のは、誰に向けてのものだろう。
胸がざわざわして、何となく鞄の中のスマホを取り出してみる。電源を切ったままの黒い画面。そこに、自分の顔が映り込む。
そこに電源を入れる気力が、沸かなかった。




