退学届
ショッピングモールを出る足取りは、より一層勢いがついた。
たとえ彩音に忘れられていたとしても、無事でいてくれさえすれば、必ずまた出会える。僕が彩音を忘れてしまった時と立場が逆転しただけだ。
希望を持たされ、胸に輝き始めた時、ふと代償という真っ黒な文字が、頭の中心に重く鎮座し始めていた。
彩音が事故に遭った時、僕が願ったのは『彩音の幸せ』だった。そのときの代償は、彩音に関する記憶のすべてと、感情の喪失。ならば、彩音はどんな代償が課せられているのだろう。
彩音が、何を願ったのかは分からない。ただの僕の憶測でしかないが『元の身体に戻してほしい』と願ったとしたら、彩音の身に起きる変化は何だろう。
さっき彩音のバイト先で聞いた通りだとしたら、彩音は僕のことを忘れている。
その代償だけで済んでいるのだろうか。しかし、それだけだとしたのなら、何故部屋に彩音はいなかった? 日常での突発的な何かに巻き込まれた? それとも、人間関係の変化がそうさせた?
いろいろな可能性が浮かんでは、光が濁っていく。
その時彩音が感じていた暗いものが、僕にも忍び寄ってきそうだった時、スマホが震えた。
『用事があって、今大学にいる』
僕は、その文章に導かれるまま、大学へと向かった。
校門の前に立つ。平日とは違って、疎らな往来の中、見つけた。僕は、一目散に走り、矢沢の前に立つ。
矢沢は、ぎょっとした顔をしていた。
「矢沢。念の為聞いておくけど、俺のこと分かる?」
確認すると、更に怪訝な顔をされた。
「翔、頭でも打ったのか?」
僕に対する返答は、満点だ。ならば、次だ。僕は、腹に力を込めた。
「じゃあ、影浦彩音は?」
矢沢は、目を瞬かせた。
「……誰?」
いつもの、冗談ではなく本気の回答が返ってくる。
彩音が、僕を忘れたのならば、覚悟はしていたことだ。衝撃を受けないよう防御態勢を整えていたはずなのに、実際にその言葉を聞くと、斬りつけてくる刃の威力は予想をはるかに上回ってくる。
肺に穴が空いてしまったかのように、うまく酸素が入ってくれない。
相手が矢沢だというのに、この衝撃だ。
彩音は、どれほど苦しかっただろう。あの時放った僕の辛辣な言葉が、今さら自分自身に跳ね返って突き刺してくる。
僕は、何度も深呼吸を繰り返して、その痛みを散らす。そして、今度こそと、質問を重ねた。
「じゃあ、岩谷楓さんは?」
「そりゃあ、もちろん。自分の彼女の名前、忘れるはずないだろ?」
矢沢は、さらりと言ってのけるから、理解するまでに時間を要した。何度も目をぱちぱちさせて、やっと理解する。
「お前たち、いつの間に?」
「報告しようとは思ってたんだけどさ……なんか気恥ずかしくて……」
矢沢は、頭をかいてほんのり顔を赤くしていく。だったら、猶更好都合だ。
「じゃあ、楓さんに今すぐ連絡取ってくれ! 彩音のこと、どうしても聞きたいんだ!」
矢沢は、彩音を覚えていなかった。逆に楓は、僕のことを覚えていないかもしれない。僕からいきなり楓へ連絡したところで、警戒されるだろう。
しかし、矢沢からならば、話は早い。
「楓に? まぁ、いいけど……今日はテストがあるって言ってたから、今すぐ連絡取れるか、わからないぞ?」
「それでも、今頼む!」
僕の迫力に気圧された矢沢は、スマホを取り出し、耳に当てた。
「あ、もしもし?」
矢沢は、僕にオーケーサインをつくり、そのまま話を続けた。
「友達が楓に、聞きたいことあるんだって。ちょっと、代わってもいい?」
そう言ったのと同時に、僕はひったくるように矢沢のスマホを手に取った。
「楓さん、忙しいところごめん。彩音、大学には通えてる? 今、そこにいる?」
前置きなく、矢継ぎ早に問う。スマホを握りしめる受話口の奥からは、戸惑う息遣いが聞こえてくる。僕が誰かなのか、理解できていない様子だったが、その、疑問を全部飲み込んだようだった。
『今朝、国際コンクールの推薦を辞退するって、教授のところへやってきたの』
ドクリと心音が、響く。大きく間を空け、次の心音が脈打つ前に、楓の声が貫いた。
『その時、退学届も提出したみたい』
スマホが、汗で滑り落ちそうだった。
「退学届? どうして?」
『突然、手が動かなくなったんだって。そんな時、タイミング悪くご両親が田舎から、連絡があったみたい。それで、口論になって……大学辞めるって話になったらしい』
いつか、口にしていた彩音の不安。
『私、失敗できないんだ』
緊張の膜がピンと張り詰めて、胃の底が冷えていく。
「今、彩音は?」
『そのまま実家に行ってくるって言ってた。ご両親に呼び出されているんだって。私、心配で……でも、どうすればいいかわからなくて』
彼女の葛藤が、電話越しからでも十分伝わってきた。楓の声が震えている。
僕は、一度深く息を吐いて、吸い込んだ。
「楓さん、彩音に伝えてほしいことがある。『彩音の信じた道へ。俺は、信じて待ってる』」
僕は、一方的に伝えて矢沢へスマホを放り返す。僕は踵を返し走り出した。




