希望
深夜のバーを出て、終電に滑り込む。電車の中で、スマホを確認する。彩音の連絡先は消えていた。
想定内だと、心を落ち着かせ、そのまま彩音の部屋へ向かっていた。
彩音が事故にあった時、その事実は一部改変され、あの事故に巻き込まれたことはなかったことになっていた。そして、彩音はいつも通りの翌朝を迎えていた。ならば、今回ももうすでに部屋に戻っていて、いつも通りの夜を迎えているのではないか。
どっぷり夜に浸かった道が、煌々と輝く満月に照らされている。迷いはなかった。
僕は迷わず歩を進めた。
三階建てのアパートが見えた。階段を上がり、三〇二号室の前に立つ。呼び鈴を鳴らす。
彩音が、ここから必ず顔を出してくれる。確信めいた期待を込めて、もう一度、押した。
そして、なんの前触れもなく、唐突にドアが開いた。ドアの隙間から、目が痛くなるくらいの強い光が目に差し込む。
「こんな深夜に、誰?」
その声は、彩音じゃなかった。似ても似つかない太い声。目が慣れてきて、隙間から見えたのは、吊り目の見知らぬ男だった。頭が真っ白になる。胸に黒い可能性がじわじわと侵食してくる。
何とか声を絞りだした。
「ここ、影浦彩音さんの部屋……ですよね?」
「は?」
男は、不愉快そうに眉を顰め腕を組む。
「俺は、今日引っ越してきたばっかりなんだよ」
その言葉をどう受け止めればいいのか、分からなかった。
元々、彩音はここにいなかったことになっているのか。それともちゃんと存在していて、違う場所に住んでいるのか。
どちらが今立っている現実の真実なのか、判断がつかない。早く知りたいけれど、知るのが怖い。
このせめぎ合いは、今の僕の気持ちを擦り減らしていく。
何も反応できない僕を、男はしっしと、手で追い払った。
「そういうわけで、帰ってくれ」
男はバタンとドアを閉め、ガチャリと鍵がかけられた。
来たときとは違って、足に不安がまとわりついて来て、異様なほど重い。
そもそも、彩音は消えかかっていた。その存在自体が危うい状況で、願いを叶えることは、できたのか。僕は、首を横に振り、立ち込めてきそうな黒い霧を祓い落とす。
電車も走っていない時間は、暗い道を彷徨い歩くしかなかった。そんな僕の目に、二十四時間営業のカラオケ屋のネオンが、届いた。
吸い込まれるように、中に入る。
狭い個室に、案内される。カラオケ屋特有の匂いと、明るい画面。
睡眠をとるには、不向きな環境だというのに、僕はあっさりと意識を奪われていた。
始発の電車が動き始める時刻に、ちょうど目が覚めた。店を出ると、朝日が降り注ぎ始めていた。無意識にポケットに手が伸びた。ネックレスを取り出し、手のひらに乗せる。燦々と光を浴び、集めていく。
一旦、自分の部屋に戻り、シャワーを浴びる。頭の中の詰まりを押し流す。本当ならば、今すぐにでも大学へ向かって、確実に矢沢を捕まえたいところだ。しかし、運悪く今日は、矢沢が大学に顔を出さない日。必須単位に余裕があるからと、平日の丸一日、授業を何も入れていない日にあたる。
そんな日は、矢沢と連絡がつかないことが多い。だが、今日だけはどうにかして漕ぎ着けたい。スマホを手にして、電話を鳴らす。案の定、繋がる気配がなかった。仕方なく、メッセージを送る。
『これを見たら、大至急連絡をくれ』
何の変化もない画面を見つめていても、不安に飲み込まれるだけだった。本来の彩音の部屋を思い出してしまう。
違う人間が住んでいた現実の理由を探ろうとすれば、目にも入れたくない仮説に辿り着いてしまいそうになる。
じっとしていられなかった。彩音の存在をどんな形でもいいから、感じたい。その一心で僕は部屋を出た。
彩音がいるかもしれない。
その思いの先は、ショッピングモールの彩音がバイトをしている楽器屋だった。
まだ開店して間もない時刻で、客は誰もいなかった。ギターを磨いているエプロン姿の男性を見つけ、声をかけた。
「あの」
僕の声にビクッと全身を震わせ、弾けるように僕へ顔を向けていた。
「いらっしゃい」
手に持っていたギターをゆったりと立てかけ直そうとする。僕は待ちきれずに、聞いた。
「影浦彩音さん、いますよね?」
いきなり、名前を出したのはまずかったのかもしれない。訝しんでいるような顔をしてくる。
ここで、恋人ですと言ったとして、むしろ警戒されそうな気配がした。
「以前、彼女がピアノコンサート開いていたのを聴きに来た事が、ありまして」
冷静になって言い換えると、警戒が緩んだ。
「何だ」
店長は、にっこり笑った。
「ファンの方か」
その返答で、十分だった。
彩音は生きている。彩音が存在しないなんて現実は、起きていない。それだけで、胸がいっぱいになる。目を閉じて、その事実を噛みしめる。
「はい、そうです」
声が震えないように返事をするので、精いっぱいだった。
純のカクテルを飲んだ時と同じ熱さを喉の奥に感じる。熱くなりそうな目頭を押さえ、息を吐いた。
「……彼女の次の演奏会は、いつですか?」
穏やかだった店長の顔が、突然曇った。そして、間を置く。そして、声が沈んだ。
「残念ながら、もうないよ」
確かに輝き始めていた希望が、ぼやけていく。
「どうして、ですか?」
「ここをやめてしまったのでね」
「理由は? もしかして……手に怪我をしたとかそういう、状況だったのでしょうか? 辞める直前などに、包帯とか、してませんでしたか?」
そうであってほしくないという思いが、全部言葉になってしまう。店長は、僕の焦りに圧倒されているようだった。目を丸くしたまま固まっている。
「すみません。だけど……どうしても、彼女が無事なのかどうかを知りたいんです」
店長は、驚いた顔をする。その時、横から「大袈裟ね」と、女性の苦笑いが割り込んだ。
「そんな雰囲気、なかったわよ」
誰だか分からないスーツを着た女性は、はっきりとそう言った。
「本当ですか?」
「ええ。昨日、バイト辞めるからって、あいさつしに来てくれてね。その時、話したけど、怪我しているようにはみえなかったわ」
女性は、僕を品定めするようにまじまじと見つめてくる
女性は、さらに言葉を重ねた。
「君、二年くらい前に、彩音さんに告白してたよね?」
突然出てきた、あの時の恥ずかしい出来事をまさか彩音ではない他人の口から聞くとは思わなかった。
「……あれ、見てたんですか?」
「あの時、なんて言ったんだっけ?」
容赦なく、傷に塩を塗りたくってきながら、更に再現しろという。今すぐ穴を掘って埋まってしまいたいが、本当に張本人なのか確認も兼ねているかもしれない。
「……あなたのピアノ、世界で一番好きです……」
最悪な気分で、あの台詞を言う。
女性の顔がぱっと、明るくなった。
「やっぱりそうだ! この前、彩音さんに『あの彼と、うまくやってね』って言ったら『誰のことですか?』っていうから、一瞬私の記憶力を心配してしまったけど、やっぱりあなたよね?」
「そんなこと、あったか?」
店長は首を傾げ、女性はその背中を思い切り叩いた。
「あなたって興味のあること以外、本当に何も覚えていないわよね」
「平野さんの記憶力が、異常なんですよ」
二人の軽快なやり取りとは裏腹に、自分に抱いている黒いものが重量を増していくようだった。
「彩音……覚えてなかった、ですか?」
「えぇ。だから、別れちゃったから、触れてほしくなかったのかなって思って、それ以上聞かなかったんだけど」
遠慮がちにそう言われて、自分の足元にある影を見つめる。そして、自分自身が彩音のことを忘れていた時間を思い出して、唇を噛み、前を向く。
「ただ単に、本当に忘れてしまったんだと思います。でも、きっと大丈夫」
僕の答えに、女性は小首をかしげる。
「お二人とも、色々話を聞かせてくださって、ありがとうございました。次は、彩音と一緒に来ます」
僕は頭を下げる。
「待ってるわ」
「またな」
二人は笑顔で僕の背中を押してくれた。




