二人の答え
彩音は、暗くなった空の中に今にも溶けてしまいそうだというのに、彩音は驚くほど力強い声で言った。
「私、夢現バーへ行く」
「何を、する気だよ」
危機感しかない僕に、彩音は笑う。
「私が、あの部屋に入って願ってくる」
「彩音が? 何を?」
「私は、まだあの部屋に入ったこともなければ、願ったこともない。ルールに、反していない。願い事は……言っちゃうと叶わなくなりそうだから、秘密ね?」
彩音はあくまでも冷静で、穏やかな微笑みを浮かべていたが、僕は気が気じゃなかった。
「何言ってるんだよ! 願いを叶えたら、その願いを失うんだぞ! 彩音が入ったら、それこそ……」
消えてしまう。
その言葉を呑み込む。そんな可能性、微かでも考えたくもない。
「大丈夫。私は、消えないよ」
自信があるというような口ぶりだ。
「……確実な方法があるって、ことか?」
期待を込めて問えば、彩音は迷わず答えた。
「どんな事でも、百パーセント確実なんてことはない。翔なら、そう返すでしょ?」
こんなに緊迫した時でも、今までと何ら変わらない。僕は、感服するしかなかった。僕よりもずっと彩音の方が、強い。
「だけど、信じて。私が部屋に入る理由は、明るい未来を掴むためだよ」
彩音の瞳の中心に光が宿る。
「だから、翔は待ってて」
「俺は……何もできないのかよ……」
自分自身への苛立ちは、燻り、どうしようもない怒りに変わっていく。
彩音は首を振って、もしも、と続けた。
「私に何があっても、信じてほしい。諦めないでほしい。それって、きっと一番大変で難しいことだと、思うから」
「……わかった」
「じゃあ、行こう」
そう言う彩音は、今にもバランスを崩しそうだった。僕は、包帯で巻かれた手をさらに強く握り、彩音の腰に手を回し、抱えるように歩き出す。
「翔、ありがとう」
彩音がじっと僕を見つめてくる気配がしたが、僕は目を合わせられなかった。
「それは、こっちの台詞だ」
精一杯の強がりを吐いて、ひたすら足を動かした。
あの事故が起きた場所にさしかかる。もう、あの映像は流れてこなかった。
少し削れたコンクリートの上を乗り越えていく。
そして、すっかり暗くなった空の下、僕らは夢現バーの扉を押した。
カランと鳴ったカウベルは、僕らを素直に受け入れてくれた。
一歩、二歩と進み、バーカウンターが視界に入る。バーカウンターで作業していたみつえが慌てて出てきたが、みつえは、僕を見てはっと息を呑む。バーカウンター内でグラスを磨いていた純は、手を止めないまま無表情に僕らを見返していた。
「みつえさん、純さん。約束通り、私をあの部屋へ入れてください」
彩音の声が、店内に響く。みつえは、何かに耐えるように頼りないバーのライトに照らし出されている自分の影を見つめている。
「この状況は、前例がない。願った側と、願われた側が、揃って抗うなんて話は、聞いたことがない」
純は、氷をアイスピックで削りながら、そう言った。カツ、カツと音がする度に、氷の破片が飛び散る。しかし、失敗したのか、削っていた氷を流しに捨てた。
「お前は、本当にそれでいいのか?」
純は、蛇口を捻る。勢いよく水が流れる音が響く。
「俺は、彩音の幸せを何よりも願っている。だからこそ、俺は彩音が決断した道を信じ抜く」
流れに逆らうようにそう言うと、純は水を止めた。
「それが、結局最悪の結果になったとしてもいい、ということか」
ずっと避けてきた言葉を容赦なく浴びせてくる。蔦のようなものが、足元から這い上がり全身に巻き付いて、締め上げてくるようだった。
「そうはなりません。絶対に」
彩音の凛とした声が響く。
「何故そういい切れる?」
純は、鋭く問う。
「私が、そう決めたからです」
彩音は、笑顔を浮かべる。さらに純が口を開きかけたとき、彩音と純の間にみつえが立った。
「純さん。彩音さんを入れてあげよう」
みつえは、顔を上げる。そして、真っすぐ、夢の部屋を見つめた。
「私も、信じたいの。二人を」
みつえが同意することは、想定外だったのだろう。純は、驚きを隠せずにいるようだった。ずっと、忙しなく動かしていた手が完全に止まる。純が手に持っていたアイスピックの先端が、光に当たって鋭く光る。押し黙ったまま、睨みつけている。
みつえは、一度大きく深呼吸し、彩音へ向き直った。
「あの部屋で願いを叶える為には、必ず代償があります」
僕の時、その役目は純だった。しかし、今回はみつえが宣誓を述べていく。
「その代償は、人それぞれで何が起こるかは、分かりません。ただ、夢が叶った瞬間、その夢を失ってしまうということは、確かです。同時に、願った側の周囲の人にも、何らかの変化が起こります。……それでも、あなたは本当に『夢の部屋』へ入りますか?」
「もちろんです」
彩音は間髪入れずに答える。
「わかりました……」
みつえは、目を閉じて頷いた。
「では……部屋へ」
みつえが純へ手を出す。純は無言でポケットの中にあった鍵をみつえに差し出した。みつえから、「純さん、ありがとう」と、小さな声が聞こえた。鍵を握りしめ、部屋へ爪先を向けていく。
「その前に一つだけ、ちょっとだけいいですか?」
みつえは足を止めて、肩だけ彩音へ向け頷く。
「どうぞ」
「友達と約束したんです。今年の夏、みんなで海へ行こうって。みつえさん達も、参加でお願いしますね」
みつえは目を丸めていく。彩音は、にこりと笑う。そして、今度は僕へ身体を向けた。
「当然、翔も一緒だからね」
「当たり前だ。これで置いていかれたら、一生恨むぞ」
彩音は声を上げて笑う。そして、彩音は僕の背中に両手を回した。僕の心臓の音を聞くように耳をつけ、ゆっくり目を閉じる。僕も、その身体を抱き寄せ、頭を撫でた。髪が、指に絡みついてくる。まるで離れたくないと言っているかのように。
柔らかな毛先が、僕の中心のずっと深いところまで届いて、突き刺した。僕は、神経を研ぎ澄ませ、一つ一つの細胞に彩音を刻み込む。
この温もりを。手触りを。また訪れる少し先の未来で、確かめるために。
抱きしめ返してくる彼女の指先が、微かに震えていた。その震えを止めるように、きゅっと力が入った。
「行ってきます」
いつも何気なく使っている挨拶。
「行ってらっしゃい」
本当は続けたかった言葉が彩音に届くように、最後に彩音の頭を自分胸に押し付けた。
その力が強すぎたのかもしれない。彩音の肩が微かに震えていた。
そして、彩音は離れる。踵を返し、背を向ける。肩を一度大きく上下させながら、しっかりとした足取りで、みつえの方へ歩いていく。
みつえの目から、涙が零れ落ちた。みつえは震える手でドアに鍵を差し込んだ。何かが切り替わったような重々しい音が、響く。
彩音は、ドアに手を伸ばす。躊躇なく、その中へ足を踏み入れた。
僕は、その後ろ姿を目に焼き付け、祈る。
静かに閉じられた扉。
施錠音が、部屋を揺らし、再び純の手が動き始める。氷を削る冷たい音だけが、やけに大きく響いていた。




