本当の願い
カーディガンを羽織り、透けている体を隠しながらなんとか銀座三丁目に辿り着く。
地面に薄いゴムが張られているかのようだった。気を抜くと、バランスを崩してうまく歩けなくなってしまいそうだ。
自分の足は、ジーンズの下で隠れている。目視できないが、足も、透け始めているのかもしれない。立っている感覚も、少しずつなくなっている。
透明化の進行は、今まで緩やかに進んでいくくらいだったのに、どうして急激に進んでいるのか。
それでも、何とか足を動かそうとするが、なかなか思う通りに、進んでくれない。
時間がないというのに。歯痒さを力に変えて、それでもゆっくりと歩みを進める。
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爪先は、真っすぐ夢現へ向かっていた。
人混みを掻き分けていく。
空は刻々と暗くなり、街灯が灯り始める。暗闇の中今にも消えてしまいそうな後姿。覚束ない足取り。
人混みの中にいることなど、構っていられなかった。
「彩音!」
押しのけるように、走る。振り返ってきた彩音。今にも倒れてしまいそうな気がして、その肩に手を置く。彩音は、目を大きく見開いていた。
「翔、どうして?」
「それは、こっちの台詞だ! 彩音こそ、どうして」
その先が続かなかった。彩音の肩は、上着を着ているのに、冷たい。伝染したように、僕の背筋に冷たいものが落ちていく。
吹いてきたそよ風。彩音の羽織ったカーディガンが翻った。そこから見えた腕が、透き通っている。
「俺のせいだ……俺が前みたいに、彩音と一緒にいたいと、思ってしまったから」
空が一段と暗くなる。夢の部屋で願った時とよく似ている。地獄の中をさ迷っている感覚と。
「前みたいにって……どういうこと?」
彩音に問い返される。
その時、他人の映像が自分に落とし込まれたように、蘇った。
彩音と出会い、初めて一緒に出かけた日の告白。僕の鍵を渡した時、彩音が流した涙。今も彩音の胸で光っているネックレス。
そして、夢の部屋で絶望を抱え、彩音に明るい未来をと、強く願ったあの時。
「全部、思い出したんだ」
彩音は息を呑み、僕を食い入るように見つめてくる。それは、一見いつもの彩音だ。でも、首元が段々透けて見えてくる。いくら目を凝らしても、僕の影が当たらないようにしても、彩音の儚さは変わらなかった。
「俺は、彩音の明るい未来を願った。それなのに、俺がまた彩音のことを、思い出したから……。また、俺が彩音と一緒にいたいって思ったからだ」
せめて、自分の体温を分け与えたくても、手から伝わってくる冷たさは消えてはくれない。
「彩音が夢を叶えて歩いていく為に、俺が払わなければならなかった代償を拒絶しようとしたからだ」
だから、この状況を打破する方法は、一つしかない。
「もう一度、夢の部屋へ入って、願いに行く」
彩音の消えかかっているはずの手が、勢いよく僕の襟元を掴んだ。
「ダメだよ。純さんにも言われたでしょ? もう入れないって」
もう一度、入った人間は煙のように消えた。その言葉は、もちろん覚えている。
「そんなのどうだっていい。彩音の叶えたかった夢を、俺が絶対に叶えさせてやる」
彩音のこめかみが、びくりと痙攣する。そして、ほんの少し目を大きくさせ、僕をじっと見つめた。
「ねぇ、翔。……私の夢って、何?」
彩音の叶えたかった夢。そんなの決まってる。
「世界を股にかけるピアニストになって、みんなに演奏を聴いてもらって、楽しんでもらいたい。ずっとそう言ってただろ」
デート先でピアノが流れた時も、一緒にコンサートへ出かけた時も、繰り返し言っていたことだ。
「あの時だって、その夢が叶うかどうかを確かめるために向かったはずだ」
夢現バーに向かっていた道中、彩音は期待で胸を膨らませて、はしゃいでいた。その時、握った手は、僕と違って、とても熱かった。大きな夢を持つ人の手はこういうものなんだと、思った。
「だから、願ったんだ。彩音が、世界中で活躍できるピアニストになることを」
彩音は、じっと僕を見つめてくる。伸ばしている腕は、こんなに儚いのに、その目の奥は誰も曲げられない強さがある。僕がずっと見てきたものと寸分変わらない。僕が愛したその目。
だからこそ、絶対に消したくない。そう思うのに、彩音は言った。
「全然、違うよ」
真っ向から否定される。
今度は、僕が目を見開く番だった。
唖然とする僕を見て、彩音はふっと笑う。そして、はっきりと言った。
「私が知りたかったのは、翔との未来だよ」
鼓膜を通って、巡ってきた真実。
彩音が明かしてくれた夢の答えが、僕にとってあまりに大きすぎて、酸素がうまく入ってこなかった。苦しすぎて、目に涙が浮かんでいく。
「私にとって一番大切なのは、翔だった。もちろん、今もそう」
彩音の手が、僕の頬へ伸び、撫でた。
「だから、私が今こうなっているのも、翔のせいなんかじゃない。私が、翔が願ってくれた私の幸せな未来を、私自身が拒否しているからだよ」
彩音の言葉にハッとする。
「そして、俺は彩音との幸せを再び願ってしまった……」
どちらともなく視線が合う。
「その矛盾が」
僕の言葉に続く答えを彩音がはっきりと告げた。
「今の私」
彩音の手は冷たい。
「それでも、私は選択を変える気はないよ」
彩音は力強く、そう言う。
「だって、私のピアノはね、翔がいてくれないと輝かないんだから」
彩音は、笑っているのに、僕は情けないくらい涙が流れてくる。それを彩音は細い指先で何度も何度も拭った。
「ピアノはね、自分の感情を音に乗せて歌わせるの。それができないと、ただの自動演奏と同じになっちゃう」
彩音は、困ったように笑う。
「それじゃ、意味がないんだよ」
彩音がそんな顔をするから、僕はこの涙を止める方法が、見つからなかった。
ただ、僕は濡れた手を、強く握ることくらいしか、できなかった。




