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夢の果てで、またいつか  作者: 雨宮


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未来の約束

 朝起きて、まず一番にすることは、手の包帯を外すことになっていた。

 露わになった手。右手の透明化は、もう見慣れてしまっていていちいちショックを受けることもなくなっている。更に、左手を見れば、心は完全に落ち着いて右手のことなんかほとんど気にならなくなっていた。しかし、今は左手も透けて見えてしまっている。

 現実を突きつけられると、真っ暗な世界の奥から誰かが手招きしているような、そんな恐ろしさがあった。

 その感覚を消すために、すぐにシャワーを浴び、体を温め、手に包帯を巻きつけていく。

 しゅっと布が擦れる音は、私の心の恐怖を吸い取っていく。綺麗に巻けた両手を見つめれば、一層心の芯が強くなる。そう思い込ませ、ペンダントを身に着ける。なるべく肌の露出をさけるべく、ジーンズを履く。そして、荷物を詰め込んだ鞄を手に家を出た。

 

 昨晩、白髭教授から連絡があった。

『そろそろコンクールの予選動画を撮ろうと思う。明日昼過ぎに、教授室に来てくれ』というものだった。

 外を適当にぶらついて、カフェでランチをとった後、白髭教授室のドアをノックした。

 

 返事はなかったが、防音ドアから微かにピアノの音が聞こえてくる。

 私はそっと防音ドアを押す。隙間から生のピアノの音が私の耳に届く。

 ショパンの幻想即興曲。教授がグランドピアノの前に座って、鍵盤の上を滑らかに指先が泳いでいた。

 曲は、終盤を迎えていた。まるで海の中にいるようだった。舞い戻ってきた嵐が通り過ぎて、ゆっくりと穏やかさを取り戻し、最後には太陽の光を反射させながら穏やかに波の音が響いて消えていく。そんな情景が思い浮かんだ。

 私は、胸の中心で手をぎゅっと握りしめる。


「いらっしゃい」

 演奏を終えた教授が立ち上がり、私を見た教授の顔が凍り付いた。みんな同じ顔をしてくれるなと思う。

 言い換えれば、それはわたしのことを心配してくれている裏返しなのだろうけれど。

「その手、どうした」

「先日、私の不注意で痛めてしまいました」


「教授。この度は、せっかく推薦枠をいただいたのに、大変申し訳ありませんでした」

 深々と頭を下げる。しばらく、立ち尽くしてたようだったが、壁際のポットの方へ歩き出した。

「その手では、仕方のないことだ」

 カップにお湯を注ぐ音が、静かに流れた。

 私が顔を上げると、教授は、二人分のカップを持ってソファに座り、私を促した。私は言われるがままに、教授の前に座る。

「思っていたよりも落ち込んでいないようなのが、せめてもの救いだよ」

 確かに不思議だ。

 ピアノは私の一部。毎日弾いていないと、落ち着かない。そんな日々だった。ピアノは、確実に私の人生の一部になっていた。

 それなのに、不思議と心は落ち着いている。

 私は、カップへ手を伸ばし口を付ける。温かい液体がじんわり沁み渡ってくる。

「今、色々考えることがありすぎて、ピアノまで神経が通っていないみたいです」

 教授の視線は、私の両手に行っている。

「その怪我は、どのくらいで治りそうなんだね? 一、二週間くらいならば、待てるが」

「ありがとうございます。でも、他の学生達もみんな頑張っています。チャンスを回してあげてください」

 ここにきている学生たちは、みんな音楽をこよなく愛している者達だ。この道を突き進もうと決めたからには、逃げ道はどこにもない。結果が出ないと、ずっと片思いをしている感じになって、ちょっと苦しくなる。こんなに頑張っているのに、こんなに大好きなのに、どうして認めてくれないの、と。それは人の恋愛にちょっと似ている。

 あんな苦しみは、味わいたくないし、みんなにも味わってほしくない。できれば、みんなが報われてほしいと思う。

「そうか、わかった」

 教授は労わるように言うから、私は言い返した。

「来年の私は、もっとパワーアップしていると思うので、推薦状よろしくお願いします」

 教授は、白髭を撫でつけた。

「来年はまた、素晴らしい学生が出てくる。確約は、できんぞ」

 ずっと同情を向けていた瞳の色が、鋭いものに変わる。

「もちろん。望むところです」

 私は、胸を張ってそういう。

 教授は、笑っていた。


 校舎を出る。

 楓が待っていた。楓には、朝連絡して教授のところに行ってくると、伝えてあった。

「彩音」

 いつもよく通る楓の声は、やけに籠もっていて、いつもの明るさも消えていた。

 教授と同じようにやっぱり視線は、私の両手。

「片手じゃなかったの?」

 私は、苦笑するしかなかった。

「嫌だなぁ。そんなに、深刻な顔しないでよ」

「そう言われてもさ……」

「別に痛いわけじゃないのよ。全然平気なんだから」

 ひらひらと手を振ってみせる。

「でも、私が彩音の立場だったら、声が出ない状態ってことでしょ? 私だったら、落ち着かないっていうか、不安で仕方なくなるもん。そもそも、どこを痛めたの? 神経? 骨? いつ治るの?」

 これが翔だったら、やり過ごせる自信はあった。でも、楓は違う。普段は大雑把で、隙だらけなのに、音楽に関することだと妥協がない。

 その時、タイミングよく楓のスマホが鳴った。

「スマホ、鳴ったよ」

「電話じゃないから、大丈夫」

「緊急かもしれないよ。ほら、講義室の変更とか、この時間結構あるし」

 水を差してみると、楓は仕方なくスマホを取り出し始めていた。中身を確認している。

 楓のずっと厳しかった目が一瞬だけ和らいだ。

「矢沢君だ」

 楓の手がピタリと止まって、顔を上げる。顔が少し赤かった。

「なんで、わかったの?」

「そりゃあ、何年も友達をやっているんだから、楓のことはだいたいわかるよ」

 ニヤリと笑って見せる。

 そして、空を見上げた。雲はほとんどなく、どこまでも青い。木々が揺れて、少し湿っぽい風が運ばれてきた。

 もうすぐ、梅雨がやってくるのだろう。その先は、きっと青々とした夏が待っている。

 

「ねぇ、楓。夏になったらさ、旅行にでも行かない?」

 突然始めた少しだけ先の未来の話に、顔を上げた楓に向かって、笑顔で付け足す。

「矢沢君と、翔も一緒に」

「それ、いいね!」

 複雑に歪めていた顔がぱっと明るくなる。楓には、いつだってそんな顔でいてほしい。

「私、海行きたい!」

 楓の弾けるような笑顔から、明るい声が飛び出してくる。ネックレスが揺れた。

 私は、そこへ手をやって頷く。

「うん、絶対行こう」

 これから、どうなるかわからない。

「オッケー!」

「楓さ、悪いんだけど授業が終わったら、すぐにパンフレット集めておいてくれる?」

 楓は、目を瞬かせる。

「気が早いね」

「善は急げって、言うでしょ? 私は、この後ちょっと行くところあるんだ」

「わかった。任せておいて!」

 その後、楓は一コマ授業が空いているというから、隙間の時間はその話で盛り上がった。

 どの辺がいいのか、予算はどうしようか。

 そんな楽しい予定なら、いくらでも立てたい。

 楓は、そう言った。

 その後、楓はスキップして講義室へ戻って手を振った。私は、両手を高く上げて全身で手を振り返した。楓の姿が、校舎の中へ消えていく。

 踵を返し、大学を出ようとした時、どこからともなく、ピアノの音色が聞こえた。

 ショパンのノクターンだった。

 私は、しばらくその場から動くことができなかった。 

 

 それから、私は自分の足を叱咤して、大学の校門を潜り抜けた。駅へ向かい電車に乗り込んだ。

 電車はガラガラだった。空いている席に座る。

 膝の上に鞄を乗せる。その隙間から、昔翔に買ってもらったイルカの人形が顔を出していた。

 その頭を撫でる。乗り換え駅に到着するアナウンスが流れた。

 電車を降りるために立ち上がり、肩に鞄を掛けなおそうとした。その腕が、透け始めていることに気づいた。



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