思い出す
大学へ急いで向かい、教室に入る。
僕の姿を見つけた途端、矢沢の怒り目は神妙なものに変わっていた。
「怪我、そんなに酷かったのか?」
右手の包帯。そして、平気だと言った左手。あの時は、確かに普通だった。考えすぎだと、思おうとすればするほど、何故か頭の中で透明に見えてくる。
「いや、そういう感じじゃないと、思う」
「ちゃんと聞いてこなかったのかよ。何の為に俺は、苦労したんだ」
矢沢は、しかめっ面をする。
教授と矢沢の愚痴の雑音が耳の端を流れていく。その間も、彩音の手がずっと瞼の裏に張り付いたままだった。
講義を終える。
昼食後の講義は、入れていないため適当に時間を潰したあと、空いた時間を見計らって食堂へ向かった。
ポツポツとしかいない学食。
カレーを頼んで、席につく。一口目を口に運んだところで、矢沢がぽつりと話し始めた。
「そういえば、楓さんに誘われて、今度オペラコンサート行ってみようと思うんだ」
矢沢がカレーを口に運ぶ。
彩音とは違う名前が出てきて、ここのところずっと彩音のことばかりだったことに気づく。余裕がなさすぎだった自分に気づく。僕もカレーをスプーンに乗せ、矢沢の話に耳を傾けることにした。
「ほら、自分の知らない世界を見てみるのも、たまにはいいかと思ってさ」
そんなこと、いちいち理由付けしなくてもいいのに、言い訳がましい。それが、やけに微笑ましかった。
僕と彩音が出会った頃の昔の自分を見ているような錯覚に陥る。
カレーを口に入れると、ちょうどいい辛さが刺激した。
僕も彩音と出会うまで、音楽には興味がなかった。
「へぇ、いいじゃないか」
「翔は、彩音さんとそういうところ行ったことあるだろ? やっぱ着ていくものって、スーツとか?」
「まぁ、そういう人もいるけど、俺はジャケットにスラックスって感じだったな」
何も考えず口からするりと出てくる。すぐに映像が浮かんだ。
国際コンクールで賞を取ったという有名なピアニストが来日したと言うので、彩音が必死に取ったというコンサートだった。演奏は素人目から見ても圧巻だった。
翌日、彩音はそのコンサートで大いに刺激を受けて、どうしてもピアノを弾きたいと言い出して、一緒にピアノが置いてあるスタジオに行った。
彩音の演奏も、コンサートで聞いたものとどこが違うのだろうと、首をひねるほど素晴らしかった。
魚が縦横無尽に鍵盤の上を跳ね回っているようにしか見えなかった。繊細な指先が奏でるピアノは、生命力溢れていた。
その時の光景が鮮明に浮かんでいくのに、その手が透けて見えてくる。
そして、喫茶店で見た彩音の左手と重なった。
持っていたスプーンが、急に重くなる。
「……やっぱり、あれは見間違いじゃない」
口の中に残っていた辛味が、あっという間に消えていく。
「何が?」
「一瞬だけ彩音の手が、透けて見えたんだ」
自分でも突拍子もないことを言っている自覚はあった。でも、どうしても疑念が拭えない。
普通なら、まともに取り合うのもバカバカしいと一蹴されてもおかしくないところだが、矢沢は慎重に言葉を選んでいた。
「ただの錯覚だろ。人間、疲れやストレスでも、錯覚は起こすらしいぜ。あの時お前異様に焦ってたし」
「彩音の所へ行ったときは、確かにそうだった。でも、透けて見えたのは喫茶店で、その時は比較的冷静だった」
矢沢は、顎に手をやって頭を捻る。
「だったら……気温差とか、光の屈折具合とか? 蜃気楼の延長線上で、人が透けて見えることはある訳だし」
「そんな気温差があるとは思えない」
矢沢は、さらに仮説を立てようとしていたが、ピタリと止めて、頭を掻く。
「ま、その現象の根拠はわからないけど、だからと言って人が実際に透けるなんてことは、天地がひっくり返っても起こるはずがないだろ」
「どうして、いい切れる?」
矢沢は、目を何度も瞬かせた。
「だって、透けてみえるってことは、消えるってことだろ? いくらなんでも、そんなこと起こるはずないだろ」
矢沢は、そう付け加えた。それはまるで、そんな可能性は考えない方がいいとでも、言っているようにも聞こえてくる。
その声が、間違いなく僕の根底にある何かを強く揺さぶって、足元を揺らした。
食堂を出る。矢沢とは別の講義を受けるため、その方向へ足先を向けた。
一人になると、先ほどの矢沢の一言がさらに大きく響いてきて、頭痛がしてきそうだった。
あんな子供じみた言葉に動揺するなんて、ばかばかしい。
そう思い込もうとするのに、必死だった。
講義を終え、大学を出て駅に向かう。その途中、高校のグラウンドに差し掛かった。夕暮れ時で、オレンジ色に照らされている。
その中心で高校生が集まっていた。一直線に並んでいる。
それを横目に通り過ぎようとしたとき、高校生たちが一斉に走り出した。
土埃が一気に舞う。それが、僕の場所まで飛んできて、視界が煙る。
埃っぽい匂いがアスファルトの削れた匂いに変わった。僕の血を奪っていく。
真っ白になっていく頭の奥から、はっきりと浮かんだ。
積み重なった鉄骨。その中に消えた彩音。その時感じた、絶望。
初めて過去の映像と、感情が一致した瞬間だった。




