掛け違えた善意
純は、一瞬見えた表情を隠すように、地面に落ちていたほうきを屈んで拾い上げていく。
「どうして、そう思うんですか?」
純の背中へ、鋭く投げかける。
「私は、翔から離れたって現状が変わるとは思えません」
私は、純へ挑むように言った。
純は、ゆっくり立ち上がる。
暗がりでも視認できるほど、その手に力が入っていることが分かった。握っている手から、血の気が引いている。
「あいつの願いは、単純にお前をあの事故から回避させることじゃなかったはずだ。ただ、お前の幸せを願っていたんだろう」
思いがけない言葉が純から飛び出す。
眉を顰める私へ、純ははっきりと言った。
「事故で助かるという願いだけじゃ足りない、その先の未来も」
「どうして、そんなことわかるの? 直接、翔からそう願うって聞いたの?」
私が詰め寄ると、純はふっと目尻の鋭さを消す。
純は、ほうきをドアの横に立てかける。
「いや、具体的には、俺は知らない。だが、もしも俺があいつの立場だったとしたら、そう願っていたはずだ」
突然舞い込んだ朗報。
『国際コンクールの推薦状は、君にしようと思う』
ずっと切れ切れになっていた糸が、するりと繋がっていく。
「純さんが言う通り、もしも彩音さんの幸せを願っていたのだとしたら。……私も、彩音さんは彼と離れた方がいいと思う」
みつえは、私と保っていた距離を詰めた。
そして、消えかかっている私の手を取った。ぎゅっと力を込められる。感覚はもうなくなっているはずなのに、微かな痛みを感じる。お願いだから、これ以上私に現実を突きつけないで。
そんな思いが込められている気がした。私はただ力任せに握ってくるみつえの手を見つめることしかできない。
「俺は……時折、訳も分からない焦燥感に駆られることがある。ずっと胸の奥に、蹲っている得体のしれない物体。その中身を探ろうとした時期があった」
純は、脇に寄せてあった看板へ手をやった。
「でも、それに少しでも触れようとすると、体が震えるんだ。この先は、絶対に踏み込むなといっているかのように」
看板を店の前に置く。その手が微かに震えているように見えた。
「だが、それも時間が経つにつれて、感覚が鈍くなっていく。特に、お前はあいつから、幸せを願われた側だ。お前さえ、あいつを諦めさえすれば、明るい未来を手に入れられる。それこそが、禁忌を犯してまで願った当人の願いだ。代償があると知った上で、その夢を叶えようとした本人は、どんな代償でも受け入れる覚悟があった。その代償を受け入れて、内容を忘れてしまっても、根底には残ってる。お前から別れを告げれば、あいつは必ず受け入れるはずだ」
純の眉間に深い溝ができていく。とても暗い、濃い影だ。
看板の裏に隠れていたライトを設置して電気を点けた。周囲がぼんやり明るくなり、純の影を消した。
「みつえ。お前もだ」
純は、ゆっくりとみつえへ向き直った。
みつえは、びくりと肩を震わせ大きく目を見開いた。
私の手を握っていたみつえの手の小指から、順番に力が抜けていく。みつえの手が、だらりと下がった。
「俺も、何を願ったのかはっきりとは覚えていない。でも、俺はきっとみつえの何かを願ったんだろう。時間が経った今、それだけはうっすらと理解している。みつえは、俺から離れるべきだ」
はっきりと容赦なく言う純を見て、私は思う。
この人は翔とよく似ている、と。
「さっきから、聞いていれば……みんな自分のことばっかり」
肺の酸素が不足して鎮火しかけていた炎が、一気に燃え広がった。
「自分の物差しで人の心まで推し量って、全部わかった気になって、自分の考えを押し付けないでよ!」
「このまま我儘を突き通して、あいつをまた絶望に突き落とす気か」
純の荒れた声が、暗い空に響いていく。路地に隠れていたカラスが、空を飛びあがっていった。
バサバサと羽ばたいていく。
「このままじゃだめだなんてことくらい、いちいち言われなくても、誰よりも私が一番よくわかってる」
この手を見れば、逃げ道はないのだとはっきりと告げてくる。その手をぐっと握り込んだ。
「翔も、翔よ……。私のこと、全然わかってない」
ずっと腹の底にたまっていたものを吐き出すと、狭まっていた視界が広がった。
真っ暗だと思っていた空に、満月が浮かんでいることもよくわかる。
純の怒りの眼差しは、私に向いたままだった。みつえは、自分に突き付けられた選択に動揺しながらも、私へ純が提示した道を進むように強要しているように見える。
「私がここに来たのは、今私の身に起きている理由をちゃんと知りたかったからです。忠告を聞きに来た訳じゃない。今日は、いったん頭の中を整理したいので、帰ります」
私は二人の視線を突っぱねる。
そして、一歩前に出た。
「でも、次に来たときは、私をあの部屋に入れてください」
満月の光は、明るい。
二人の顔は驚きと批難の色に染まり、硬直していた。




