諦めない
「翔、私は諦めないよ」
翔を見送っていたら、自然と声が溢れた。
翔が私の視界から消え、手を振っていた右手を下ろす。電車の発車を告げるベルが聞こえた。電車が遠ざかっていく。
私は、アパートへ爪先を向ける。
まだ明るい空の下を歩いて、部屋の鍵をかけた。
左手を見つめる。見間違いであって欲しかった。でも、翔もそう見えたのなら、間違いないのだろう。
あの日、翔と遊園地へ行ったあの時もそうだった。翔と一緒にベンチに腰を下ろしたとき、一瞬だけ右手が透けて見えた。
反射的にトイレへ行ってくると、翔に告げて駆け込んだ。
右手を確認すれば、元に戻っていて、ただの錯覚だと、胸をなで下ろした。翔のところへ再び戻ろうとした。その瞬間、手はまた透けていた。震える左手で、右手を触ってみたら、人の手ではないと思えるほど冷たくなっていて、私は逃げるように遊園地を出ていた。翔へ帰ると途中で連絡を入れていたが、頭の中はこの現実をどう受け止めればいいのか考えることで精一杯で、取り繕う暇がなかった。
その後、家に帰って右手をずっと見つめていた。元に戻るどころか、透ける間隔の方が長くなっている気がした。
——どうして?
いくら考えても、答えは出ない。
でも、手は警告しているかのように点滅する。現実から目を逸らす方法は、包帯を巻いて見ないようにすることしか、できなかった。
途方に暮れる時間と比例して、日常の時間も流れて待ってはくれなかった。
楓から無断欠席の理由を問われ、出た言葉は、怪我をしたという嘘。
翔には言わないようにお願いすることだけだった。
包帯を巻いた右手を、擦る。最初はあったはずの感覚が、麻酔をかけられているかのように何も感じなくなっている。
ゆっくり包帯を取る。
うっすら透けていたくらいの右手は、向こう側が見えるほど透明度を増している。
ふいに涙が出そうになって、私は天井へ顔を向ける。
大きく息を吸って、電気が煌々と輝く光を見据えた。
どんなことがあろうと、翔と一緒にいることを私自身が選んだ。ならば、抗い続けてやる。
もう、泣くのは終わりだ。
ゆっくり息を吐いて、透明になりかけている右手へ再度、きつめに包帯を巻き直す。
そして、点滅を始めた左手にも包帯を巻いていく。右手と同じくらい強く巻き付けていくと、圧迫感があった。最後に包帯の端をテープで、止める。出来上がって両手を見つめる。
『身体が勝手に動いたんだ。記憶は全くないけど、気付けば足が動いていた。これまでも、そういうことが何度もあった。彩音を前にすると、戸惑うというか……頭と身体がついていかない感じばかりあって、ずっと苦しかった』
そう言った翔は、今まで見たことがないほど瞳をほの暗くさせていた。
『だけど、彩音のピアノを聴いた時、断片的に自分の声と彩音の映像が流れたんだ。その瞬間、理解した。今は記憶がないけど前の俺は、彩音のことが』
ちょっと前の私なら、それを聞いたら泣いて喜んでいたはずの言葉だった。
でも、この時は、自分に起こっている現象の理由の輪郭が見え始めて、言葉が出なかった。
重い沈黙を縫って、翔の声が聞こえた。
『もしかして、俺が……何か、関係しているからなんじゃないのか?』
心臓を直接叩かれたような衝撃が走った。本当は「私のせいだ」と言いたかった。でも、そう言ったらきっと翔はもっと、考え込んでしまう。そして、一番思い出したくない記憶までも思い出してしまうかもしれない。そうなったら、翔はまた苦しむことになる。
翔の思考を止めさせたかった。でも、私にできたのは「違う」という説得力に欠けた短い言葉を繰り返すことくらいだった。
その瞬間、自分自身に対して、無性に腹が立った。
私は、何度も翔を傷つける運命なんか、冗談じゃない。
私は、鞄を掴んだ。
そして、少し傾き始めた夕日の中、電車に乗り込んだ。
夢現のバーの前にちょうど掃除をしていたみつえを見つけた。
「みつえさん」
手を止めて、振り返ってきたみつえは、明るい笑顔だった。
「彩音さん、いらっしゃい」
みつえの視線はすぐに私の手元へ移動した。キラリと輝いていた瞳の光が、私の手に吸い込まれていく。
「手……どうしたの?」
恐怖の色に塗り替えられていた。真っ黒になった瞳が、一点から動かない。
「突然、驚かせてごめんなさい。でも、見てもらったほうが早いから」
私は、右手の包帯を取り払っていく。露わになればなるほど、みつえの顔は怯えに変わっていた。私を畏れるように、身を引いていた。
「何で? どうして?」
みつえ自身がこの状態になることこそ、一番恐れていた姿だったのだろう。みつえは、酷く動揺していた。みつえの手にあったほうきが、地面に落ちた。
夢現バーの扉に、ほうきの柄が当たった。ガタンと、大きな音をさせて地面に落ちる。
「翔の願ったことは、おそらく私が死んでいない未来が来ることだった。その結果、今私はここにいる。でも、夢の部屋に入った人がその願いを叶えてしまうと『夢を叶えた瞬間、夢を失う』そう、ですよね?」
みつえは、両手を胸にやり、ゆっくりと頷いた。
「翔は、夢を失った。つまり、私という存在自体が翔の中で消えたという代償を背負った。でも、私はそんなこと関係なく、翔ともう一度一緒に行く道を選んで、何とか振り向いてもらおうとしました」
拒絶されて、もう無理かと思いかけた。翔に合鍵を返した時も、ただ思い出してもらおうと必死だった。
その後開催した、ピアノ演奏会は、もう一度繋ぎなおしたいという願いを込めた。
「そして、翔も少しずつ私のことを受け入れてくれようとしていた」
翔の記憶がなくなって初めて一緒にデートをした時、最初はどうしても緊張感があって、ぎこちなかったが、時間が経つにつれて、私が事故に遭う前と同じような柔らかい雰囲気に変化していった。時折見せてくれる笑顔は、まさに私の知っている翔だった。
少しずつ、私たちは昔に戻ってる。そう実感した時だ。
「その矢先、私の手が透け始めました」
右手を見やる。
薄暗い路地裏では、透明どころか、何もなくなっているようにしか見えなかった。
「本来、翔が負う代償は、私を忘れることだった。でも、私が彼の傍にいることによって、その記憶を刺激しているみたいでした。実際彼に聞いてみたら、断片的に私といた時の記憶の映像が見えることがあると、言っていました。だから、私はこうなっているんだと思うんです」
みつえの顔は、さらに強張った。何を言うべきか、言葉を選ぼうとしている。
その時、扉が開いた。
「だったら、今からでも間に合う。もう、あいつに会うな」
純が顔を出した。
ずっと感情の起伏がなかった純の顔が、大きく歪んでいた。




