不安
そんなこと、あるはずがない。非現実的なことが起こりえるはずがない。
言い聞かせるほど、心臓がどんどん早く脈打って喉の方まで、浮き上がってくる。脈打つ音が大きすぎて、全身の骨が軋んだ。
「じゃあ、ここはお言葉に甘えちゃうね」
彩音は、僕に背を向けていく。左手が見えなくなる。その背中を呆然と見つめていると「お支払いお願いします」店員から声をかけられた。財布を取り出す手が震えた。
小銭を出す指がもつれた。バラバラと、小銭が雨のように地面に落ちた。その瞬間唐突に自分の絶叫だけが聞こえた。
『彩音が……彩音が、いるんだ!』
これも、僕の記憶か?
途端、布で顔を被せられたように、息が苦しくなる。
支払いを済ませ、急いで店を出た。
彩音は、ちゃんとそこにいた。乱れていた呼吸が、戻った。
「今日はありがとうね」
彩音は、笑う。いつも通りの笑顔だ。何も変わらない。
「彩音」
「何?」
しかし、両手は後ろに回っている。僕は、見えないその手をじっと見つめた。
「左手、見せて」
彩音の顔が一瞬強張るのがわかった。狼狽えているように見える。確認するのが、余計怖くなる。僕は、彩音の隠れている左手へゆっくり手を伸ばそうとした。
その前に、彩音はぱっと僕の前に左手を見せてきた。
「はい、左手」
目の前に突き出された左手を、まじまじと見つめる。手を取って、角度を変えてみてみる。しかし、どうやっても透けては見えなかった。傷ひとつない。しなやかで長い指先だ。ほっと胸をなで下ろすと、力が抜けた。手の中にあった彩音の手も、するりと逃れていく。
「一体どうしたっていうの?」
一瞬透けて見えたんだよ。そんなことありえないよなと、笑って答えればいいのに、できなかった。
「いや、別に……」
透明な水が一度濁ってしまえば、なかなか元に戻らない。それと似たような現象が起きていた。
いくら自分の手や目で確認しても、どうしても。
「本当に、心配性だなぁ」
彩音は眉を下げていく。そして、彩音は左手をまた後ろへやってしまう。
「そう言えば、今日平日だよ? 大学、大丈夫なの?」
そう言われて、一気に現実の日常に引き戻された。
まずい。
スマホを取り出し確認する。矢沢から嵐のような連絡が入っていた。
いい加減にしろ、早く戻ってこい、ふざけんな。あらゆる暴言が羅列されていた。顔を顰めると、彩音も横から画面を覗き込んできていた。
「これは、矢沢君ご立腹だね。早く、大学戻った方がいいよ」
脇腹を肘で、つついてくる。溜息しか出なかった。
「彩音は、これからどうするんだ?」
「午後は、行くところがあるの」
「どこに?」
ほとんど反射的に出ていた。彩音は丸くする。
「翔って、束縛する人だったんだ」
「いや……そういうことじゃなくて、その手だし」
手玉に取られている自覚があるのに、しどろもどろになってしまう。
そんな僕を見て、彩音はくすくす笑っているから、余計に情けなくなる。その時、とうとう痺れを切らしたようにスマホが鳴った。
「ほら、早く行かないと。単位落としたら、面倒になるよ」
彩音は、さっさと前を行き、横断歩道を渡っていく。僕も、仕方なくその後を追った。
改札の前に着き、彩音が振り返る。
「ちょうど、電車来そうだよ」
彩音からも、鳴りっぱなしのスマホの奥にいる矢沢からも、急かされる。仕方なく、改札を通過する。改札を隔てた先で、僕はもう一度振り返った。
「頼むから、無茶はしないでくれよ」
本当に言いたかったことを口にすれば、その可能性が現実になりそうで、そんな言葉くらいしか思い浮かばなかった。それでも嫌味を言いながらでも「うん」と頷いてくれれさえすれば、納得できたはずだった。
でも、彩音は、苦笑いを浮かべるだけだった。
「またね」
白い包帯が巻かれている手を振ってくる。足が動かなかった。
その時、電車が到着するアナウンスが流れた。
「乗り遅れちゃうよ」
彩音の声が僕の背中を押してくる。
「また、連絡するから」
苦し紛れにそう言い置く。
彩音は、笑顔で頷いた。また手を振ってくる。彩音がまた何か言ったようだが、電車が駆け込んでくる轟音にかき消され、僕はホームへと駆け上がった。




