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夢の果てで、またいつか  作者: 雨宮


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17/30

異変

 彩音はもう平気だと言って充血した目のまま、笑っていた。

「ごめん、取り乱しちゃった」

手に巻かれている包帯よりも、ずっと痛々しかった。

「少しお茶しない?」

 彩音はそう言って、部屋に鍵をかけた。


 駅前の喫茶店に入店する。

 まだ昼時と言うには早い時間帯のため、店内は閑散としていた。スピーカーからは、ピアノが流れてきていた。彩音は、その曲に合わせて鼻歌を歌っていたが、途中で「この曲はね」と、解説が入る。それは、一見いつも通りに見えて、僕の気を逸らすためにも見えた。話している間も膝の上に手を置いて、なるべく僕の視界に包帯が入らないようにしてる。とても頭に入ってこなかった。

 一段落ついたところで、彩音は水を一口飲む。そのタイミングを見計らって、僕は聞きたかったことを並びたてた。

「それで、一体何があったんだ?」

 彩音は、ゆっくりと視線を落としていく。そして、手を掲げて見せた。ひらひらと振ってみせる。

「包帯で大げさに見えるかもしれないけど、大したことないの。痛くないし」

「でも、休学届出すくらいの怪我なんだろ?」

「念のためだよ」

 そういう彩音はどんどん視線が逸れていた。何か隠しているという直感はあったが、追及してもこれ以上口を割らないだろう。そう思えた。

「じゃあ、楓さんに『俺には、この話をするな』って言ってたのは、どうして?」

「何だか、尋問されているみたい」

 彩音は眉を下げた。

「昨日、翔と出かけた後に痛めちゃったでしょ? 翔は心配性だから、絶対気にすると思ったの。今みたいに」

 自分の欠点を言い当てられて、言葉が詰まった。彩音の方が、よっぽど僕の扱い方を熟知している。

 オーダーしたブラックコーヒーとカフェラテが運ばれてきた。伝票バインダーが机に置かれる。それを横目に、居住まいを正す。のらりくらりと躱していく彩音をどう攻略すればいいのか。

 考えがなかなかまとまらない中、店員が下がっていった。彩音は、包帯がない左手でカップを持ち上げて口をつける。僕もコーヒーを口に含む。

 クラシックから、いつか観た映画で流れていた曲に変わった。壮大で物悲しい、そんな曲。

  

「翔……どうして、うちがわかったの?」

 彩音は、カップを両手で包み込む。包帯で巻かれている右手も、そこにある。

 彩音は、カップの中の液体の表面をじっと見つめていた。


「身体が勝手に動いたんだ。記憶は全くないけど、気付けば足が動いていた。これまでも、そういうことが何度もあった。彩音を前にすると、戸惑うというか……頭と身体がついていかない感じばかりあって、ずっと苦しかった」

 正直な思いを言葉にすればするほど、あのどうしょうもない感情が僕を飲み込んでいきそうになる。コーヒーの苦みが一気に広がった。

「だけど、彩音のピアノを聴いた時、断片的に自分の声と彩音の映像が流れたんだ。その瞬間、理解した。今は記憶がないけど前の俺は、彩音のことが」

 そこまで言ったところで、突然店内の音楽が遠くなった。代わりに、自分自身の声が大きく聞こえた。

 

『彩音が幸せであれば、これ以上願うことはないさ』

 それは、彩音のピアノを聴いた時と同じ。自分の声。そこに、純の暗い声が重なった。


『あの部屋に入って、お前は夢を叶えた。そして、今のように苦しむ道を選んだ』

 もしも、さっきの声が僕の叶えたかった夢だったのだとしたら。どうして、彩音は今こんなことになっている?

『その結果、夢を叶えた瞬間、夢を失った。それが、今だ』

 その代償として、俺は彩音を忘れたはずだ。

 自分の手のひらを見つめる。でも、今の僕は、断片的な記憶がうっすらと浮かぶことがある。 

『どう足掻こうが一度叶えた夢は、取り消すことはできないし、代償も消えない』

 代償。

 その言葉が、僕の身体に容赦なくのしかかってくる。


「……もしかして、俺が……何か、関係しているからなんじゃないのか?」

 彩音がカップから手を離した。ソーサーに乗っていたスプーンがカシャンと跳ねた。カップが割れたような大きな音で、周囲からの視線も集まる。

「違う」

 まるで彩音は、僕の考えを全部読み取ったかのようだった。

「絶対に違う。翔は関係ない」

 彩音の有無を言わせない強い瞳が、そこにあった。その真剣さに気圧され、閉口するしかなかった。

「ごめん、驚かせて」

 彩音は、そう言って黙った。僕もそれ以上何もいうことができなかった。コーヒーを飲む。ただ黒い液体を飲んでいるようだった。苦みも甘さも、何も感じない。ただ、胃の中に液体が注がれ荒れていくようだった。彩音の前にあるカップは、まだ半分以上残されていた。


「そろそろ、行こっか」

 彩音は、立ち上がり左手で伝票バインダーを取った。僕へ背中を見せた時、手から何かが滑り落ちた。床にたたきつけられ、パチンと乾いた音が響く。彩音は、落ちた伝票ではなく、自分の左手を見つめているようだった。そのまま立ち竦んでいる。僕が代わりに、伝票を拾い、彩音の方へ振り返る。

「彩音?」

 右手で左手を抑えている。

「どうした? 大丈夫か?」

 僕が彩音の左手へ手を伸ばそうとしたが、彩音は恐れるように身を引いていく。

「ごめん……ちょっと、手が滑って」

 彩音はそう言って、先にカウンターの前まで行ってしまう。彩音はポケットから財布を取り出そうとしていたが、片手で苦戦しているようだった。

「俺が払うから、彩音は」

 言いかけた時、口の中の水分が一気にのどへ流れ込んだ。出かかった声は、唾と一緒に飲み込まれていく。

 彩音のポケットから見えた手が、一瞬透けて見えた。

 


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