異変
彩音はもう平気だと言って充血した目のまま、笑っていた。
「ごめん、取り乱しちゃった」
手に巻かれている包帯よりも、ずっと痛々しかった。
「少しお茶しない?」
彩音はそう言って、部屋に鍵をかけた。
駅前の喫茶店に入店する。
まだ昼時と言うには早い時間帯のため、店内は閑散としていた。スピーカーからは、ピアノが流れてきていた。彩音は、その曲に合わせて鼻歌を歌っていたが、途中で「この曲はね」と、解説が入る。それは、一見いつも通りに見えて、僕の気を逸らすためにも見えた。話している間も膝の上に手を置いて、なるべく僕の視界に包帯が入らないようにしてる。とても頭に入ってこなかった。
一段落ついたところで、彩音は水を一口飲む。そのタイミングを見計らって、僕は聞きたかったことを並びたてた。
「それで、一体何があったんだ?」
彩音は、ゆっくりと視線を落としていく。そして、手を掲げて見せた。ひらひらと振ってみせる。
「包帯で大げさに見えるかもしれないけど、大したことないの。痛くないし」
「でも、休学届出すくらいの怪我なんだろ?」
「念のためだよ」
そういう彩音はどんどん視線が逸れていた。何か隠しているという直感はあったが、追及してもこれ以上口を割らないだろう。そう思えた。
「じゃあ、楓さんに『俺には、この話をするな』って言ってたのは、どうして?」
「何だか、尋問されているみたい」
彩音は眉を下げた。
「昨日、翔と出かけた後に痛めちゃったでしょ? 翔は心配性だから、絶対気にすると思ったの。今みたいに」
自分の欠点を言い当てられて、言葉が詰まった。彩音の方が、よっぽど僕の扱い方を熟知している。
オーダーしたブラックコーヒーとカフェラテが運ばれてきた。伝票バインダーが机に置かれる。それを横目に、居住まいを正す。のらりくらりと躱していく彩音をどう攻略すればいいのか。
考えがなかなかまとまらない中、店員が下がっていった。彩音は、包帯がない左手でカップを持ち上げて口をつける。僕もコーヒーを口に含む。
クラシックから、いつか観た映画で流れていた曲に変わった。壮大で物悲しい、そんな曲。
「翔……どうして、うちがわかったの?」
彩音は、カップを両手で包み込む。包帯で巻かれている右手も、そこにある。
彩音は、カップの中の液体の表面をじっと見つめていた。
「身体が勝手に動いたんだ。記憶は全くないけど、気付けば足が動いていた。これまでも、そういうことが何度もあった。彩音を前にすると、戸惑うというか……頭と身体がついていかない感じばかりあって、ずっと苦しかった」
正直な思いを言葉にすればするほど、あのどうしょうもない感情が僕を飲み込んでいきそうになる。コーヒーの苦みが一気に広がった。
「だけど、彩音のピアノを聴いた時、断片的に自分の声と彩音の映像が流れたんだ。その瞬間、理解した。今は記憶がないけど前の俺は、彩音のことが」
そこまで言ったところで、突然店内の音楽が遠くなった。代わりに、自分自身の声が大きく聞こえた。
『彩音が幸せであれば、これ以上願うことはないさ』
それは、彩音のピアノを聴いた時と同じ。自分の声。そこに、純の暗い声が重なった。
『あの部屋に入って、お前は夢を叶えた。そして、今のように苦しむ道を選んだ』
もしも、さっきの声が僕の叶えたかった夢だったのだとしたら。どうして、彩音は今こんなことになっている?
『その結果、夢を叶えた瞬間、夢を失った。それが、今だ』
その代償として、俺は彩音を忘れたはずだ。
自分の手のひらを見つめる。でも、今の僕は、断片的な記憶がうっすらと浮かぶことがある。
『どう足掻こうが一度叶えた夢は、取り消すことはできないし、代償も消えない』
代償。
その言葉が、僕の身体に容赦なくのしかかってくる。
「……もしかして、俺が……何か、関係しているからなんじゃないのか?」
彩音がカップから手を離した。ソーサーに乗っていたスプーンがカシャンと跳ねた。カップが割れたような大きな音で、周囲からの視線も集まる。
「違う」
まるで彩音は、僕の考えを全部読み取ったかのようだった。
「絶対に違う。翔は関係ない」
彩音の有無を言わせない強い瞳が、そこにあった。その真剣さに気圧され、閉口するしかなかった。
「ごめん、驚かせて」
彩音は、そう言って黙った。僕もそれ以上何もいうことができなかった。コーヒーを飲む。ただ黒い液体を飲んでいるようだった。苦みも甘さも、何も感じない。ただ、胃の中に液体が注がれ荒れていくようだった。彩音の前にあるカップは、まだ半分以上残されていた。
「そろそろ、行こっか」
彩音は、立ち上がり左手で伝票バインダーを取った。僕へ背中を見せた時、手から何かが滑り落ちた。床にたたきつけられ、パチンと乾いた音が響く。彩音は、落ちた伝票ではなく、自分の左手を見つめているようだった。そのまま立ち竦んでいる。僕が代わりに、伝票を拾い、彩音の方へ振り返る。
「彩音?」
右手で左手を抑えている。
「どうした? 大丈夫か?」
僕が彩音の左手へ手を伸ばそうとしたが、彩音は恐れるように身を引いていく。
「ごめん……ちょっと、手が滑って」
彩音はそう言って、先にカウンターの前まで行ってしまう。彩音はポケットから財布を取り出そうとしていたが、片手で苦戦しているようだった。
「俺が払うから、彩音は」
言いかけた時、口の中の水分が一気にのどへ流れ込んだ。出かかった声は、唾と一緒に飲み込まれていく。
彩音のポケットから見えた手が、一瞬透けて見えた。




