もう一つの心臓
僕は部屋に帰ると、すぐにスマホを手にとった。
彩音の名前をタップする。『突然ごめんね』という、短い文面を見つめる。
もう一度、突然帰ってしまった理由を何度も考えてみる。
無意識のうちに口を滑らせてしまったのではないか、気に障るようなことをしたのか、色々考えてみたがどんなに思い返してみても、引っ掛かりは出てこなかった。
ベンチで別れる直前まで、ずっと楽しそうに笑っていた。
だからこそ、猶更、腑に落ちない。
その衝動で、彩音の電話番号をタップした。しかし、呼び出し音ばかりで、繋がることはなかった。
電話を切って、メッセージを開く。
『いつでもいいから、会えないかな?』
送信して、スマホをテーブルに置く。
静寂には慣れているはずなのに、妙に音が恋しくなった。なんとなくテレビをつけてみた。
音楽番組が流れた。
青春真っただ中のやけに元気な曲だった。それが引き金になったように頭の中で、うっすらと映像が流れてきた。
僕の部屋ではない、どこかの部屋。壁際に電子ピアノが置かれている。
その横にテレビがあった。
「ねえ、翔はどんな曲が好き?」
彩音はリズムに乗りながら、音楽が流れるテレビを指さしていた。
「うーん、ビートルズとか?」
「え……翔、何歳?」
彩音はそう言って、お腹を抱えて、笑い転げていた。
「俺は、音楽に疎いんだよ。そういう彩音は? お気に入りのバンドとかいるの?」
「えっと、モーツアルトとか、バッハとか……?」
どや顔をして、ひねり出してきた答えがそれで、結局二人で大笑いした。
流れる映像にはやはり、感情が乗っていない。
でも、頭の中で流れた彩音の笑顔は、遊園地へ一緒に行った時、見せていた彩音のものと全く同じものだった。僕の唇は、自然と上がっていた。
今度、同じ質問をしてみよう。
そんなことを考えていたら、欠伸が出た。
初めて、彩音と出会った時から、ずっと心を乱され続けていた。なかなか眠りにつけなかった日々が嘘のように、睡魔は穏やかにやってきて、僕の意識を攫っていった。
翌朝、大学の校門をくぐると、いきなり矢沢に肩を掴まれた。
いつもは教室で待ち構えているのに、珍しい。肩に置かれた手を払いのけ、教室へ直行しようとしたら、まったく予想していなかったところから、矢が飛んできた。
「お前さ、この前遊園地に行ったとき、突然帰られたって言ったよな? その時さ……怪我とか、してなかった?」
「怪我?」
勢いよく振り返ると、矢沢は驚いた顔をして、頭をかくばかりだった。
そのあとが続かない。矢沢らしくない歯切れの悪さだ。
「楓さんから連絡があってさ……お前に言うなって、彩音さんから口止めされてるから、俺もお前には言うなって言われてたんだけど……」
「そんなの今更だろ。何があった?」
矢沢の襟を掴む。
昨日子供が風船を割った破裂音が聞こえた。大きく僕の頭に響いて、更に重量を増した爆発音に変わっていった。目の前がチカチカしてくる。
立ち上る煙の臭いが、漂ってきそうになったとき「翔!」と、矢沢の怒鳴り声がした。
肩を揺さぶられ、一気に引き戻される。
「そんな大袈裟に受け取るなよ! 怪我したのは手だよ、手!」
目の前で矢沢が自分の手をひらひらとさせる。
ぼんやりしていた焦点がゆっくり結ばれていった。
「手……?」
「彩音さん、昨日大学には来たみたいなんだけど……手を怪我をしたとかで、包帯でぐるぐる巻きになってたんだって」
「いつ? どこで?」
「家で手を捻ったらしい。でも、このことは絶対お前に言うなって、彩音さんに釘を刺されたみたいなんだ。だから、もしかしてあの遊園地に行った時に怪我したのかなって、ちょっと思ったんだけど。まさか、そんなに気が動転するとは思わなかったぜ」
やっぱり言わなきゃよかったと、ぶつぶつ言っている。
喉元まで上がってきていた心臓がゆっくり下がっていくが、元の位置には戻ってくれない。
手は、ピアノを弾く人にとっては、もう一つの心臓といってもいい場所だ。
僕は拳を握りしめ、もう一度丁寧に遊園地の日を思い出してみる。乗り物は子供の乗り物のような、激しいものじゃなかったし、一緒に歩いていて、転んだりするようなこともなかった。
やっぱり思い当たる節はない。どこか痛がることも、様子がおかしくなったということも、僕の前ではなかった。
急展開は、やはりお手洗いに行くと言って別れた直後。突発的な何かが起きたということか?
「彩音、今どうしてる? 大学は?」
「手が使えないから、大学はしばらく休むって、昨日休学届を出しに来たらしい……って、おい!」
僕は、走り出していた。
行先は、わからない。体は、目的地の場所をよく知っているとばかりに、勝手に動いていた。
電車に飛び乗り、乗り換えを重ねる。
いつか僕に話していたのだろう。彩音の不安な顔が頭を掠めた。
「私のピアノにはね、両親の期待もたくさん込められているの。でもね、私にはその思いが重すぎて、実家から早く離れたいって、ずっと思ってた。だから、大学入学が決まって、条件付きではあるけど、一人暮らしを許してくれた時には、正直ホッとした」
「条件付き?」
聞き返した僕に向かって、彩音は困ったような顔で頷く。
「絶対に優秀な成績で大学卒業すること。挫折したら、実家に強制送還」
そう言った彩音に、暗い影が差し込んでいた。
「だからさ、私失敗できないんだ」
彩音は、そう言って笑っていたが、影は消えていなかった。
そんな彩音が、手が使えなくなったら、どうなる?
いくら思い出そうとしても、彩音の家はどこの駅なのか、わからない。
でも、足は迷わなかった。
落ち着いた閑静な街並みが広がる駅で、降りる。
改札を抜けて、横断歩道を渡る。
歩道橋を渡った先に、三階建てのアパートが見えた。
階段を上がり、三〇二号室の表札の前に立つ。呼び鈴を鳴らす。呼び出し音はすぐに雑音に変わった。その奥から『はい』という声が聞けただけで、安堵が広がった。
勢いばかりで来てしまって、喉の奥が詰まった。
「えっと……急に、ごめん」
それだけしか言っていないのに『え?』と、驚いたような声が響く。そして、相手が誰かさえも確かめもせず、プチっと切れ、すぐにドアが開いていた。
ゆっくり開いたドアの向こうから現れた彩音は、まじまじと僕を見つめてくる。
「よく、ここがわかったね……?」
その目の下には、濃い影ができていた。ドアを押さえる手は、聞いていた通りの包帯が巻かれている。
それでも、ちゃんと目の前にいる。
そう思ったら、堪らなくなった。
手を伸ばし、彩音の頬を撫でる。少し大きく見開いた目に、みるみる水の膜は張られて、唇が震えていた。
「……翔。……ごめん、ごめんね」
ポロリと涙が溢れ落ちていく。それをそっと拭ってやる。
「どうして、謝るんだよ」
笑ってみせると、次々と新たな涙が零れ落ちていた。
「だって、私」
彩音の頭の後ろへ手を回し、彩音を引き寄せた。腕の中に閉じ込める。
彩音の背中を撫でる。熱いくらいのぬくもりが、手のひらから、全身に伝わって染み込んでいく。
もう理由なんてどうでもよかった。ただ、この温もりを離したくないと思った。




