追いつかない心
演奏が始まったのだろう。滑らかな音色が、ショッピングモール内に響く。
明るい曲は、人々の心を惹きつけてやまないようだった。すれ違った人が、その音に引き寄せられていく。ピアノの方向へ向かっていた。その間に一曲が終わり、拍手が聞こえてくる。
足は、その波に押し流されるように、動いていく。出口が見えた。
外は夕暮れの時間帯で、夜を迎えようとしている。その中へ飛び込もうとした時、再び演奏が始まった。
母の好きだった曲。
まるで、行くなと言われているようだった。僕の足にピアノの音色が蔦のように絡みついて、離さない。それが徐々に、這い上がってきて僕の胸まで締め上げてくる。
気づいたときには、ピアノを聴きにきた人の群れの中にいた。そこから、見えた人物は彩音。
あぁ、やっぱりだ。
驚きはなかった。
ただ、涙が溢れた。頬を伝って、落ちる。雫が地面に落ちて、弾けた。
その瞬間、僕の知らない映像が頭の中で流れ込んだ。
『あなたのピアノ、世界で一番好きです』
『何もしないでいいから、ただここで待っていて』
『彩音が幸せであれば、これ以上願うことはないさ』
まったく覚えのない言葉が、自分の声で聞こえてくる。それを発した時の自分の熱も、景色も。はっきりと。
それなのに、目の前にある顔だけが、ピントが合わない。でも、今はゆっくりとその顔が露わになる。
曲が終わる。拍手が起こる。彼女が立ち上がり、聴衆を見渡す。その目と合った。
大きく見開かれていく。やがて、一礼をし、彼女は微笑む。
見えなかった顔。それは、彩音だ。
人の波が引く。僕はそこから動けなかった。彩音は、僕の前に立っていた。いつかのような悲しみの色はなかった。覚悟を決めたような凛とした強さだけがある。今の僕に、ないものを持っている。
「……よくわからないんだ」
声も情景もはっきりと思い浮かべることができる。だが、それはまるで感情移入できない映画やドラマを観ているような感覚だ。そこに心が伴わない。
彩音は、全部わかっているというように、頷く。
「初めまして。私は、影浦彩音といいます」
笑みにうっすらと緊張が滲ませながら、白い手を僕へ差し出した。
全く同じようなやり取りがあった。その時は、その手を握っていたが、今の僕はその資格があるのだろうか。
「これから私のこと、知っていってください」
彩音の声が僕の手を突き動かしてくる。何度も上げ下げを繰り返しながら、その手を握る。
きゅっと握り返してくる細く長い指先は、とてもよく馴染んでいく。
やっぱり、あの映像は自分のものなのだと、疑う余地はなかった。
その手は酷く冷たかった。




