流れ
それから一カ月。その間も大学生活は、淡々と流れていく。
ピアノの実技、レポート。それをやり過ごしながら私は、必死に毎週土曜日の五分間ピアノを弾いた。
人は集まってきてくれて、拍手をくれる。しかし、いくら探してもその中に、翔の姿はなかった。
頭ではわかってはいたが、現実はもっと厳しいと痛感せざるを得なかった。
それでも、翔とあの場所で出会えるまで、弾き続ける。私は、決心していた。
そんなある日、白髭教授からの呼び出しがあった。教授室のドアをノックするとすぐに返事があった。
教授室の防音ドアを押す。いつもより数倍、重く感じる。部屋の中には、二台のグランドピアノが置かれている。その脇のソファで教授は、ティーカップを手に寛いでいた。
「おー。来たかね」
垂れ目を下げるから、優しい物腰もさらに柔らかく聞こえてくる。しかし、音楽に関わった途端、人格が変わるから気が抜けない。
「お呼びでしょうか?」
「ちょっと『木枯らし』エチュード弾いてくれない?」
のんびりと言って、紅茶をすする。
つい最近、実技試験があった。あの時の課題曲は、違う曲で、特に何も言われなかったけれど、これは再試かもしれない。
私は、ゴクリと唾をのみ込む。
ピアノの前に座り手を置く。導入の静かな旋律。その後、葉が嵐のように舞う激しい曲調に変わる。弾いているうちに、この曲と私自身が重なった。演奏が終わる。
カシャンという音が、曲の中に引きずり込まれていた私を引き戻す。
教授は、カップをソーサーへ戻した音だった。感想も、ダメ出しもない。
「あの……再試の演奏、どうでしたか?」
私が聞いても、教授は頷くばかりでやっぱり無言だった。
いよいよ、気持ちが落ち着かない。「留年」という文字が、どっしりと私の頭上に浮かんできそうになったとき、教授が立ち上がった。私の前に立つ。その顔に、笑顔がない。ごくりと固唾をのみ込む。
「国際コンクールの推薦状は、君にしようと思う」
「え?」
空っぽの思考回路が一度ぐるりと回転した後、鮮やかに何度も夢見たコンサート会場が目の前に広がっていく。一方で、やっぱり理解が追い付かなかった。ピアノ科には、上には上がいて、私よりもいい演奏をする人はたくさんいる。
「あの、本当に……私ですか? 私、影浦彩音といいますが……お間違えていない、ですよね?」
教授は、人の顔を覚えないというので有名だ。
「だから、今弾いてもらったんだよ。君で、間違いない」
嬉しさという感情を乗せたロケットが発射していく。私も文字通り、何度もその場で飛び上がる。
「浮かれるのは時期尚早。予選権を勝ち取っただけの話だよ。それはわかってるよね?」
「もちろんです!」
「それならいい」
教授は、再び紅茶を口にしてソファに座った。
「君、最近何かあったかね?」
喜びのリズムを打っていた脈が止まる。
「……どうして、そう思われたんですか?」
「最近の君の演奏は、ガラリと変わった。さっきの演奏もそうだが、別人のように聴こえる」
垂れ目の奥の鋭い視線は、私の核心を見抜いていく。
私は、一度死んで生き返った。翔によって、私に二度目の人生をくれた。
「私の中にいる大切な人が、私に力を貸してくれているんだと、思います」
口をつけたカップの縁から、最後の一筋の紅茶が落ちる。
教授は、それを太い指で拭う。
「ビデオ審査の後は、半年後の現地予選だ。精進するように」
「はい!」
私は、気合を入れて、部屋を出た。
廊下の窓から、心地よい風が吹く。
バイト先の楽器店へ向かう。今日は平日。
客もいないし、暇を持て余して、ピアノの前に座った。人差し指で、高い一音だけ鳴らす。
呼び鈴だったように、店長がひょっこり顔を出した。
「今日は、弾いちゃダメだからね」
「わかってますよ」
布をとり、鍵盤を拭く。埃や汚れを丁寧にふき取ったところで、店長が手招きをしてきた。
また、文句だろうか。
「何ですか?」
「来週の土曜日もピアノ弾くんだろ?」
店長が、卓上カレンダーを指さす。土曜日に、赤丸がついている。
「祝日なんだよね」
「たしかに。でも、私たちには関係ないですよね?」
この店は、年中無休だ。祝日で、変わることといえば、多少の客は増えるくらいだ。
「この日。塾、休みなんだよね」
私は、食い入るように店長を見る。
「さすがに、ずっとはダメだよ? でも、祝日フェアということで午前と午後に分けて、コンサートという形で弾いたら、どうだろう?」
「店長、大好き!」
私は、店長に抱きついていた。
その後何度も、店長から「あれは、セクハラじゃないからね。むしろ僕は、被害者だから」と念を押されていた。
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水の底にある感情は、乱されることもなければ、浮かんでくることもない。
あれから、彩音は僕の前に現れることはなかった。それは、一段暗い場所にある僕の平穏を取り戻すことと同じ意味だった。
ただ濁った水の流れに、身を任せる。
その行き着く先は、いつも通りの本屋。
それでいい。
本屋の独特のインクの臭い。殺伐としたこの場所こそ、僕の居場所をつくってくれる。
激流のような流れに飲み込まれ続けていたら、岸壁に身体を打ち付けてバラバラになってしまう。
矢沢から、買ってきてくれと頼まれていた本を一冊手に取り、会計に並ぶ。
順番がやってきたそのカウンターの下に、ポスターがあった。
『言の葉楽器店 ピアノミニコンサート実施します! 国際コンクールに出場予定の現役音大生による演奏を、ぜひご堪能ください!』
一瞬だけ、気を取られる。
「お会計は、現金ですか?」
急いで財布を取り出し、金を払う。先ほどのポスターは、すぐに頭から消えていた。
本屋を出る。足が少し重い気がした。気にせずそのままエスカレーターに乗る。
その時。
ピアノが、聴こえた。




