同じ場所で
翌日、私が真っ先に向かったのはアルバイト先である『言の葉楽器』だった。
ショッピングモール開店と同時にエスカレーターを駆け上がる。
開店準備をまだ整えている最中の白髪だらけの頭を見つけた。
「店長!」
ギターを危うく取り落としそうになった店長が、振り向く。私が誰なのかわかると、ほっとした顔をして蓄えたひげを整えた。
「なんだ、影浦さんか。クレーマーかと思って、びくびくしちゃったよ」
手にしていたギターを元の場所へ戻す。
「なんで、こんな時間? 影浦さん、バイト午後だったよね?」
壁にかかっている時計は、午前十時を少し過ぎたところを指している。今は、そんなことはどうでもいい。
「前一度だけ、私がピアノを弾いたことありましたよね?」
「あぁ、そんなことあったねぇ」
「もう一度、やらせてください」
「ダメ、ダメ」
店長は、即答だった。あまりに早すぎて、頭にきた。
「どうしてですか? 前、私がピアノ弾いたとき、後からピアノ習いたいって生徒が増えたって、喜んでたじゃないですか」
「そうなんだよ! あの時、影浦さんのお陰で、確かにピアノ教室の生徒は増えたんだよ!」
店長は、キャッシャーの方へ歩いていく。その後ろをついていくと、店長がカウンター下にあるファイルを取り出していた。
パラパラめくって、私がピアノを弾いた年の生徒数の変動を見せてくれる。私が弾いた月を境に、グラフが伸びている。その後、時間が経つにつれて再び生徒数が減っていることが見て取れる。
「あの時は意外と、効果あるんだなって驚いたよ。この赤字経営から脱出できるって思った。だから、僕も影浦さんがここで働いてくれている間、定期的に弾いてもらおうかと考えたんだよ」
私は、店長を睨みつける。
「そういって、一度も弾かせてくれたことないじゃないですか」
口を尖らせると、店長はそんな怖い顔しないでよと、泣きそうな顔をしていた。
「だってさ……隣の隣の店舗、塾だろ? クレームが入ったんだよ。勉強中にピアノがうるさいって。ほら、あそこ進学塾だから。怖いんだよ、あそこの女塾長さん」
私は、売上表ファイルを手にする。店長は目を丸くしていた。
「ちょっと、行ってきます」
ちょっと待ってよ、という私を引き留める声は耳に入ってこなかった。
塾の前に立ち、ノックする。どうぞという、女性の返事と同時に、ドアを押した。
その先に立っていたのは、かっちりとしたスーツ姿の女性だった。塾長、平野と書かれたカードが首から掛かっている。
「すぐそこの言の葉楽器店の者なのですが、少しお時間よろしいでしょうか?」
平野の銀縁眼鏡がギラリと光った。
「もしかして……あなた以前ピアノ弾いていた子?」
切れ長の瞳が下がっていて、店長が言うほど、あたりが強くなかった。むしろ好意的な気配がする。
私は、手に持っていたファイルを抱きしめた。
「はい、そうです。影浦彩音と申します」
「とても、お上手なのね。私、ショパン好きなのよ。あの時は、つい聞き惚れてしまったわ」
「ありがとうございます。ぜひリクエストしてください。今度、弾きますので」
話の流れに乗ったつもりだったが、平野のにこやかだった表情が硬くなっていた。
「それは、困るわ」
「前にも言ったけど、勉強の邪魔なのよ。授業中にピアノなんか弾かれたら、生徒たちの集中力が途切れちゃって」
やれやれと、肩を竦める。
平野は、スーツの袖をつかんで、しわを伸ばしていく。
ここは数字で、経営者思考で攻めるしかない。
「この売上表みていただけますか?」
真横にあるカウンターの上にファイルを置いて、店長が見せてくれた場所を開いて見せる。
そして、私がピアノを弾いた月。売り上げが伸びているグラフを、指さす。
「私がピアノを弾いたのは六月です。この月、売り上げ急激に上がった実績があるんです。でも、その後は、ゆっくりと下がっている状況で……。うちの楽器店、赤字経営で大変なんです。私少しでも、貢献したいんです」
「なるほどね」
平野は、カウンターに回り込んで椅子に座る。ファイルを分析するように、足を組む。両肘を机について、トントントンと、規則正しくリズムを刻みながら、机を叩く。
それがしばらく続いて、止まった。銀縁眼鏡が、カウンターに置かれていたカレンダーへ向く。
「土曜日。十五時から五分間だけ。それなら、いいわよ。ちょうど、休み時間だからね」
「ありがとうございます!」
私は、嬉しさのあまりぴょんと飛んでしまう。咳払いをして、態度を改め、丁寧に頭を下げる。
平野は、そんな私を見て、頬杖をついた。
「あなた、売上のためっていうのは建前で、純粋にあそこでピアノが弾きたいんでしょ?」
眼鏡の奥の切れ長の瞳が、私の頭の中身を覗いてくる。完全に見抜かれていて、何も言えなかった。
「正直に話してくれたら一日と言わず、毎週でもいいわよ」
「本当ですか?」
反射的にそう返せば、にやっとした笑みがあって、私は頭を抱えるしかなかった。
図星ですといっているようなものだ。
自分の単純さに、心からため息をつく。もうここまで来てしまえば、白状するしかなかった。
「……ここで、どうしても、私のピアノを聞かせたい人がいるんです」
「それこそ、大学で聞かせればいいじゃない?」
「無理なんです。ここじゃないと」
翔と私が出会ったきっかけは、楽器店のピアノだ。もう一度あの時を再現できれば、もしかしたら記憶がうっすらとでも蘇ってくれるかもしれない。
可能性は低いかもしれない。それでも。どうしても試してみたかった。心のどこかで、私のピアノを覚えていてくれることを信じたかった。
「もしかして、あの人?」
「え?」
「あなたに、告白していた人いたでしょ?」
「知ってるんですか? 覚えているんですか?」
「大胆なことする子もいるものだわって思ったからね。顔とかは、思い出せないけど」
物や情報は、部屋に入った人側の周りは全部消えるけど、私たちみたいな、願いを託された側には残ってしまう。
みつえは、言っていた。ということは、私たちと直接接点のない人は、微かに覚えている。
そういうことなのかもしれない。
「そうです……私、彼にもう一度聞いてほしいんです。そして、思い出してほしい……」
「思い出す?」
「彼、すっかり忘れちゃったみたいなので」
平野は、少しずれていた眼鏡の位置を戻す。
そして、深い事情はわからないけれど、と前置きをしていた。
「すぐに機械に頼ってしまう時代だけど、何だか素敵ね。そういうの」
切れ長の瞳が、細められる。
「わかった。じゃあ、毎週土曜日の五分間時間をあげる。短い時間だけど、彼に届くといいわね」
「はい!」
私は、胸のネックレスを両手で握りしめる。




