【第二章65】普段と違う、変わったもの
椿苑基地の正門入り口前で橙恩とは別れると、彼は自室がある二等級宿舎へ、僕は真反対の中将の執務室がある本館の方へ向かった。
本館までの短い道すがら。夕方は降っていなかったのに、今になってまた小降りの雪が降り、硬く積もった雪の上に新たな柔らかい層を作り出している。掃いた息が眼鏡を曇らせ、ただでさえ白い視界をさらに曇り掛かった白さに重ね塗った。それでも新雪のその上を踏みしめながら、本館の入り口を通って中将様の執務室の扉を叩いた。
二回目のノックが終わって直ぐに、本当にすぐ直後に音もなく扉が開いて中将様が中に入るように手招いた。珍しく焦っているようにも感じる行動に少し驚きつつも中に入ると、普段は良然が居るイスに俊什が俯きながら座っていた。そのせいでまるで手が届かないところが痒くなった時に似た違和感が生れていた。
ここに俊什がいる理由が分からず、もしかして中将様は僕と俊什を引き合わせ、仲直りでもさせようと思っているのかと少し邪推した。しかし中将様がそんな事をするわけがないと思い留まり、俊什からは目を離して中将様を見た。
「よく来てくれた。まだ入院中だと言うのに祝宴への参加に加え、儂の呼び出しと苦労をかけて申し訳なかったな。それと来たばかりですまぬ、早速だがこれを見てくれ」
そう言って、中将様は俯いた俊什の腕を掴み、彼が嫌そうな顔で舌打ちするのも構わずにその左腕をまくり上げた。しっかりとした筋肉が付いた腕の肘より少し下あたり、下腕部の真ん中にある赤い入れ墨に目を奪われた。腕輪のようにぐるりと一周して刻まれた牡丹の模様、その牡丹は雷華軍の旗印でもある牡丹によく似ていた。いや、そのものであると言ってもいいかもしれない。
「なんですか、それは…」
「これは雷華軍が育てた礼者であるという証だ。数は少ないが、軍には一般から招集した者の他に、このように雷華軍に育てられた証として墨を入れられた礼者がおる」
「ハ、流石中将様。あンでそんな事知ってンだヨ、急に呼び出したかと思ったら急にオレの服を捲り始めンだ。どうせ最初から二人ぐるみで当たり付けてたンだろ」
「ぬ、濡れ衣だ…!僕はそんな入れ墨のことなんて、今初めて知ったばかりで…し、しかし俊什が軍に育てられた礼者であることが、僕を呼んだことにどう関係するのですか?」
少し黙り込み、息を吐いて俊什の手を離した中将と、だらんと垂れた自身の左腕の袖を戻しつつ、入れ墨があった場所を服の上から押さえる俊什を交互に見て、なんとなく僕も口をつぐんだ。
僕に言うべきかどうか、本当に直前まで悩んでいたのであろう中将様が考えている間に僕が口を挟んじゃいけないような気がして、中将様が口を開くのを待った。しばらく目を閉じて考えていた中将は、僕に向き直りようやく口を開いた。
「このような牡丹の印がある者は大抵、軍に恨みを持つか心を病むことがある。そして、今回の件は監査官殿を狙ったものではなく..恐らく監査官殿を通して総監督殿に対しての犯行ではないかと儂は考えている。そして、真相を聞く際には監査官殿も同席する権利があるとも考えて、貴官を此処へ呼んだ」
そう言って中将様は俊什の肩に手を置き、話すように促した。俊什は腕を押さえたまま、顔を上げると険しく細めた目を、何故か僕に向けた。
「軍への恨み?ッハ、そんな生ぬるいもンじゃねえヨ…!オレが、オレらがどんな地獄を生きたか知らねえでのうのうと阿保みてえに生きてるそいつを見てよォ!オレがどれほど腸が煮えくり返る思いだったカ!知らねえ癖に!」
「な、何のことを」
「明日の朝の挨拶をしようっつう些細極まりない約束すら、それすら守れねえで死ンじまったあいつらを見送ったオレの気持ちを!テメェは知らねえンだろ!?目の前で仲間の目が死ンでくのを見守るあの背筋も凍るほどの悍ましい感覚を!その地獄を作り出した原因の息子のテメェが知らねえなんざ許せねえンだヨ!」
「辞めよ俊什!儂は犯行動機を言えと言うたが、私怨まで吐けなどとは言うとらん!」
「ッるせえ!」
肩に置かれていた中将様の手を振り払い、ガタっとイスを蹴って俊什は怒りに歪んだ顔で立ち上がった。中将様と俊什はにらみ合い、その場に居るだけで窒息しそうなほどに空気は険悪に染まった。
僕はただ彼の叫ぶ剣幕と悲痛さに圧倒されて言葉を失ってしまい、恥ずかしいことに何も言えずに手を握り締めて立っている事しか出来なかった。何も言えなかった。
握りしめた手の平に食い込んだ爪が酷く痛んだ。




