【第二章64】我、天啓を得たり
「坊ちゃま?どうかしたのかい」
橙恩が肩に触れただけだと言うのに心臓が縮み上がり、大きく飛びのいて距離を取ってしまった。僕が大袈裟なまでに驚いた事で、逆に彼を驚かせてしまった。
行き場なく手を宙に浮かせたまま不審そうに僕を見る彼に、そう言えば質問に何も返して居なかったとようやく思い当たる。早く何か返さなければ、と焦るほど喉の奥で言葉がつっかえて何も出てこず、黙ったまま足元の雪に目を落とした。
「大丈夫かい、様子がなんだか...辛いなら私の肩を貸そうか?」
「いえ、僕は大丈夫です、考え事をしていただけでその…いえ、やはり肩を貸して頂けませんか」
「勿論。むしろもっと早く言ってくれても良かったんだよ」
考えれば考えるほど、頭も目も回ってなんだか足元が覚束ない感覚が怖く、橙恩の肩を貸して貰った。彼は嫌そうな素振りはちっともなく、非常に慣れた動きで僕の腕を自身の首に回した。
しかし、あの本…天命礼記の効力がどれ程あるのか僕には分からない以上、僕はいつまでも自分の感情が果たして本当に自分のものであるか考えなければいけない。いや、僕は確かに恨んでいるかもしれないが、憎んでいるほどではない。
...待てよあの本が何かしらの感情、ないしは思考を読者に強制させるものだとして、それが憎しみや恨みであるという根拠がない。
確かにあの本を読んだ人は天与礼者に対して過度に尊大になったりだとか、見下す様になる傾向があるらしい。不可解なことに礼者達はそれを受け入れてしまう節があるが…礼者でない人たちのその行動源が憎しみである保証は無いのではないか。もしかしたら疑念が膨らんで、といった理由かもしれない。
では…では僕は自分の意思で中将を恨んでいると言うのか?この国の英雄を、中将を?
僕があまりにも長く黙り込んでいたからか、隣の橙恩が息を吐く音と共に白いもやが彼の顔周りに広がり静かに消えた。ため息のようなそれには躊躇いが込められているのか、「うーん」という微かな声が混じっていた。
「坊ちゃま、先ほどの私の質問には大して含みがある訳ではないから、あまり気負わないで欲しい。そんなに考え込まれると私もかなり重圧を感じてしまうからね。ただちょっとした世間話のつもりだったんだよ、だから別に答えなくても」
「僕は、中将様が嫌いだと思ったことはないです。あってはいけませんからね、この国の英雄ですよ、彼は。僕だって、中将様のお名前を聞いてその武勇を称える話を知っているんだ…だから嫌いになるだなんて、そんなことはあっちゃいけないんですよ、絶対に」
そうだ、僕は中将のことを恨んでなんかいない。嫌いとも思っていない。憎いだなんて論外だ。僕は中将を、いや、中将様を尊敬しているのだ。そうでないのなら、僕は天命礼記の影響を受けているということになる。それはつまり、あの父親に操られていることに他ならないのだから。
ああ良かった、中将様とお話しする前に心の整理が出来て。あのままであれば、僕は不誠実なまま中将様の前に出ることになる所だった。機会をくれた橙恩に感謝しなければ。
「橙恩さん、ありがとうございます。お陰ですっきりしました」
「え?あ、あぁ…何かをした積もりは無いけど、坊ちゃまのお役に立てたのなら良かったよ」
「そうだ、橙恩さんは中将様をどう思っていますか?」
「私含め基地に勤務する隊員は全員、残方中将を尊敬しているよ。あの方が戦う姿を朴の坊ちゃまはまだ見たことがないだろうけど、正しくその姿は英雄だよ」
そうだろう、彼は天与礼者なのだから中将様を尊敬している。そうであるはずなのだ。例え親父がどんな思考を植え付けようとしても、彼らは自身に誇りを持ち中将を仰ぎ見ている。そして中将様も自分を尊敬して信じてくれる彼らを信用し、きっと仲間としてどこまでも守ろうとするんだろう。
僕はどう頑張ってもその輪に加われないのだろう。
「さあ坊ちゃま。そろそろ基地に着くけれど自分で歩くかい?それとも私が支えたままの方がいいかな?」
「ありがとうございます、ですが自分で歩きます。もう頭もはっきりしてきましたので、もう歩けます」
気がつけば、もうすでに目の前は椿苑基地の入り口だった。ほんの少しぼんやりしていただけなのにいつの間にかついていたようだ。
橙恩の提案はありがたいが、次は中将様との約束があるんだ。もう酔いもすっかり抜けたことだし、そろそろ自分の足で歩かなければいけない。感謝しつつも橙恩の支えを断り、門をくぐった。
「ではお休みなさい坊ちゃま。ああ、残方中将との約束があるんだったね。であっても、無理をしないように」
「はい、ありがとうございます」




