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【第二章61】限定的な人気者

 あの人を呼ぶ、とそういって彼はイスを引いてどこかへ声をかけに行ってしまった。あの人、とは誰だろう?此処に僕の知り合いは橙恩しかいないが、かれを呼びにいったのかな。

 なんだか無性にしょっぱいものが欲しくなり、とりあえず汁を飲もうと皿を持つと、湯気が顔にふきかかって鼻水が出てきて、鼻を大きく啜り上げた。

 ちょうどその時に再びとなりで少しイスを引いた音がして、誰かきたのかなと首を傾げながらそっちをみると、かれはじぶんで言っていた通りに橙恩を呼んでいて、僕を指さしていた。かれと僕の間に立っている橙恩は「おやおや」なんて言って笑っている。


「なあこの人飲みすぎてるからさ、ちょっと面倒を見てやってくれないか?」

「おやまぁ坊ちゃま…いつからそんなにベロンベロンに酔っていたの?すぐそこに居たのに全然気が付かなかったよ」


橙恩は笑いながら水を僕に手渡してくれた。その水を飲むとだんだん頭がひんやりとしてきて、ピタリと涙がとまった。さっきまで止めようとも思えなかった涙が、たった一杯の水で止まるのかと他人事のように驚いてしまった。

 隣に座ったかれも、頬杖をつきながらへえ!と笑っていて、驚いているようだった。


「その少し汁物を飲んでから、他の料理を食べてみたらどうかな?このまま帰っても食堂の時間は過ぎてるから、夕食にあり付けないまま寝ることになるよ」

「それはこまります」


空きっ腹で寝るのは大変につらい、昔夕食を食べずに夜更かしをこころみた。その時は今までにないほどつらく、耐えがたい空腹だった。結局、なにかをつまみ食いするために厨房へしのびこんだのが母さんにばれてこっぴどく怒られてしまったんだっけ。


「そうだろう、そうだろう。折角祝辞を張り切って遂行したんだ、もう少し食べようじゃないか」

「はい」


そう返事すれば、あっという間に目の前の卓からいくつかの料理が小分けされた状態で僕の前に並んだ。なんて手際が良いんだ、と隣に立つ橙恩を見上げるとかれは肩をすくめて、ため息をついた。


「酔っぱらいの後始末をどうすれば良いのかなんて、もう考えなくても出来るぐらい、私は酔っぱらいに好かれているんだよ。それで…私を呼んだのはどちら様かな」


挨拶がまだだったね、と橙恩が握手を求めるとかれ...ええと、息子の方の彼はこころよく握手に応じた。名前も知らないというのはこうも不便なのか。


「俺かい、ここの息子さ。それこそ連れて帰らなくて良いのかい?いや、あんたの裁量にケチを付けたいわけじゃないんだ。ただ先に寝かせた方がいいんじゃないかと思ってね」

「勿論、問題はないよ。私だけでも坊ちゃまを担いで戻れるし、空の胃袋に酒だけの方が響くから、幾らか食べてもらわないとね」

「それもそうか。それと、さっきからこの人を坊ちゃん坊ちゃんと呼んでるが、この人は」

「橙恩さん、」


箸を止めて彼を呼ぶと二人とも僕が会話に入るとは思ってもいなかったのか、驚いたように動きを止めた。一瞬だけ僕の周りに静寂が漂い、宴会の笑い声、話し声、食器がぶつかる音しか聞こえなくなった。

 しかしすぐに橙恩はニコリと微笑んで僕の方へ体を向けた。僕の酔いが覚め始めたことに気が付いているのか、何か探る様に慎重な視線だ。


「はいはい、どうかしたのかな?」

「今はなんじでしょう、時計を置いてきてしまいましたので時間がわからなくて」

「時間、ああ。いまは十九時半を回ったあたりかな。酔いは覚めたのかい」

「まだ舌が回りませんが話せます」

「ははぁ、坊ちゃまは私が見てきた中でも一番優秀な酔っぱらいだよ。素晴らしい、自分で正気に帰れるなんてね」


嫌味なしに言っているのはわかるけれど、それにしてもしつれいだ。僕は酔ってるときも正気だったぞ。

…いや、ちょっと正気を逸してたかもしれない。全部ぶちまけてしまったがあれは話してはいけない内容だったんじゃないか?今更過ぎるが口止めを…


「ちょっと、失礼。先ほどの内容は酔っぱらいのざれごとですので、忘れてくださいね。特に、泣いたところとか…」


ここの息子と名乗る彼にこそこそと声を落として囁くように口止めを試みると、向こうも分かってくれたのか満面の笑みで数回力強く頷いてくれた。

 これは…おそらく分かってくれたんだと思う。すごくいい人だ、この情報量で察してくれるなんて。まあ中将を慕っている人なんだからそれも当然なのかもしれない。

 僕はすっかり安心してほっと胸を撫で下ろしたが、肝心なことを僕は忘れていた。


「坊ちゃま、私に何か隠し事かい?何を話していたのか教えてくれないのかな?」

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