【第二章56】伝言役には不適切
後ろから聞き覚えがあるが今会いたくない人間の声がする。とうとう僕は自分で幻を作り始めたようだ。恐ろしいものである、人間という生き物の脳とは。
「おい無視すんなよ、オレが話してるだろ」
僕の部屋までの道のりとはこんなに長いものだっただろうか?もう疲れてきた。いや、入院生活で体力が衰えてきているのかもしれない…
「話聞けって!中将からお前宛に伝言を預かってんだよこっちは!」
ずっと無視をしていたらとうとう肩を掴まれ強制的に足止めされた。横暴だ、上に言いつけて反省室送りにでもしてやろうか。
そんな出来もしないことを考えながら、わざとゆっくり振り返って睨みつけた。面倒臭そうに顔を顰めて眉間に深い皺が出来ている良然と目がかち合い、ため息をついて肩を掴んでいる手を叩き落とした。
「だったらそれを最初に言ってくれませんか。時間の無駄でしょう、何度も何度もしつこく話しかけてきては無視されるのなんて」
「お前が無視しなきゃ良い話だっただろ!」
「よくもまあ僕がまともにあなたの話を聞くと思えますね」
「無視する道理もねえだろ。中将が明日話があるんだとよ、まあ今日は一日基地には帰らねえんだろ?帰ってきたら使いでも出せよ、お坊ちゃんならやり方ぐらい分かんだろ」
じゃあな、と言いかけた良然の襟を掴み後ろに引っ張る。流石と褒めるべきか、そのまま後ろに倒れることは無かったが首は締まったらしく、ぐぇと見苦しい声を上げて立ち止まった。
「んだよ!喧嘩売ってんのか!」
「いえ?ただ呼んだだけですけど。僕は別に外に一泊する気はありませんが?用事があるなら早めの方が良いでしょう、祝宴が終わり次第中将の執務室に直行すると伝えて下さい」
自分がやっていた事と同じことをやり返しただけなのにこうも鼻息荒く怒るとは、いささか心が狭いのではないか。仮にも僕は年下で後輩なんだが?まあそれと同時にここの監査員でもあるのだが、まあ気にしたらいけない。
しまった、こんなところで油を売っている暇はないんだった。早く服を取りに行って着替えないといけないのにこいつが急に絡んでくるから余計な時間を食ってしまったじゃないか。
「じゃあ、僕は着替えなきゃいけないのでこれで失礼します。忘れず中将様にお伝えください」
「おい!待てよ!」
後ろから建物が軋んでいるような、もしくは虫の鳴き声みたいな声が聞こえたが、あえて聞こえないふりをして走ると流石に追いかけては来なかった。まだそれなりの分別があったとは驚きだ。
奴を振り切って久しぶりとも言える自分の部屋の戸を開けた。数日開けていただけなのに、もう埃っぽい匂いがしている部屋に足を踏み入れると、当初僕が思っていたよりかは気分がいい。
備え付けの衣装棚を開けると手つかずだった替えの軍服が二着ぶら下がっている。ここに来たばかりのころは軍服の替えが二着も必要かと考えていたが、今はむしろ二枚で足りるのだろうかと思ってしまう。
ここで勤務してまだ一か月も経っていないというのに随分と考え方が変わったものだ。よく考えてみれば一か月いただけにしては、目まぐるしすぎる日々だったな。
一番右にあった服をとり、入院用の服から着替える。入院用のゆったりとして柔らかい生地の服とは全く違って、少し窮屈感を感じるそれは着ていて少し違和感があった。木の棚の中に入っていた為か少し湿気でしっとりと冷たい。まあ考えたって仕方がないか…これから着続けるものなのだから、きっと次第に肌に馴染むだろう。
そうだ、今日は祝宴なのだからむしろ新しい服で行った方がめでたく見えて好都合じゃないか。完全なる偶然ではあるが新しい服になったのも悪くは無い。
手早く着替えを済ませてちょっとした荷物を革の鞄の中に入れる。と言っても財布と台本と手紙ぐらいしかないのだが、これ以上必要そうなものも思い浮かばない。
一応再度持ち物を確認して部屋を出ると、僕の部屋の前の廊下の壁に寄りかかっている橙恩と出会わせてしまった。欠伸をしている最中であったらしいことから、(恐らくだけども)たまたま居合わせた訳ではなさそうだ。
「ああ失礼、欠伸が出てしまって…それより朴の坊ちゃま、出発の準備はお済かな?」
「ええ、出来ましたけど…なんでここに橙恩さんがいるんですか」
「送って差し上げようかなって思ってね。というのも歴代の監査官殿が今回の祝宴に参加するってなった時にいつもは私が案内していたんだよ。案内するほどの距離でもないけど、まあ箔でも付けたいんじゃないかな。一種の伝統みたいになってるから、坊ちゃまは気にせず、ただの案内だと思ってくれたらいいよ」
はあ、と曖昧な返事をして僕は言われた通り、橙恩の後ろを小鴨のように着いて行って祝宴会場へと出発した。




