【第二章53】引きちぎれた傷
「ゆっくりお休みなさい朴の坊ちゃま。坊ちゃまの夢見がいいことを願っているよ」
笑顔でそう言った橙恩の言葉が耳にこびりついて離れず、その声から逃げるようにして脇目も振らずに僕は病棟へと走った。
走って体を動かすたびに肩の傷が痛んで、ジワリジワリと血が滲むような嫌な温もりを感じたが、それも無理矢理に意識をそむけて走って帰った。
怖かった。昨日のこともあってか、壁の色も光も影も橙恩も得体のしれない金属音も、何もかもが途方もなく怖かった。
ようやく病棟についたときにはすっかり息が上がっていて呼吸も肩の痛みも苦しくて仕方がなかったが、あの圧迫感を感じるようになってしまった灰色の壁ではない白い壁を見ると次第に心が落ち着き始め、ドッと冷や汗が出た。
冷たい壁に寄りかかって浅く短い呼吸を繰り返していると、呼吸が落ち着いてくるとともに顔を顰めてしまう程傷の痛みが顕著になってきた。もう経っているのも儘ならない程に頭がグラグラと揺れてその場に蹲る。
「朴さん?そこで何をされているのですか?」
「白姐でしたか。はは、息切れしただけですよ」
ああ、よりによって今出会うのが彼女だったとは。確かにここは彼女の居城かもしれないが、それにしたって運命のめぐりあわせが悪すぎる。もし僕の傷が開いたと知ったら彼女は治そうとするだろう。例えそれが彼女を煩わせるだけであっても。
だから適当なことを言って白姐をどこかへ巻いてしまおうと考えたのだが、僕の意図と反対に彼女はずんずんと近づいてきた。
「息切れですか?安静にと言ったのに無茶をしたんですね?そういうところは皆さん変わらないんですから困ったものです」
「ああ、そうなんですか?それはそれは、白姐さんも大変ですね。お忙しいでしょう、僕のことはお気になさらず。少し涼んでるだけですから」
「まあ本気で仰ってるの?私は医者ですよ。患者のやせ我慢ぐらい見抜けませんでどうして名乗れますか」
白姐は僕の襟を開いて肩に巻いた包帯を見て顔を顰めた。恐らくかなり血が包帯に染みてしまっているんだろう。あとから包帯を外すときに感じるであろう痛みを想像すると中々にぞっとする。
「傷が開いてますね。何をしたんですか?」
「ええっと、走りましたね」
「走っただけでそうそう傷が開いたりはしないのですが…」
「本当に走っただけですよ」
「そうですか…とりあえず処置します。開いたままにしておくと感染が怖いですからね、さあこちらに来てください」
白姐はその細身では考えられないほど力強く、あっという間に僕の腕を肩に回してふらつきもせず歩き始めた。
「ええっと、負傷部分は肩なので自分で歩けるんですよ。勿論白姐のお気持ちは嬉しいんですが…」
「であれば、どうぞそのままで。私としてもこちらの方が楽なんです」
いやいや…とは思ったがこれ以上言ってもどうにもならないだろうと思い、口をつぐんだ。恐ろしいかな、白姐の体力は僕よりあるらしく歩みに不安定な様子は見られず、一貫して安定していた。
ほんの少し薄暗い廊下を抜け、明りがついた処置室らしき部屋の前に立つとようやく彼女は僕の腕を放してくれた。まあ、ドアを開ける為だったのだが、今度こそやんわりと断って自ら診察台に座った。
僕が強情だった為にか白姐は呆れたように目を細めたがしかし、最終的には何も言わなかった。代わりにこう…悲しそうなというか、諦めたような…とにかく心が痛むようなため息をつかれてしまった。
「では私は消毒液やガーゼを用意いたしますので、その間に服を脱いでくださいね。包帯は私が外しますからそのままで構いません。無理に剥がすと傷が広がってしまうので、むしろそっとしてください」
「わかりました」
過剰じゃないかと思えるほど念入りに注意され、信用が随分地にめり込んでいるなと心の中で自嘲する。しかしまあ治療は治療なので、大人しく服を脱いでそばに畳んでおく。暖房がついているのだろう、少しあたたかい部屋ではあるけれどやっぱり服を脱ぐと寒さで鳥肌が立つ。
「包帯を剥がす前に固まった血を溶かします。その為にぬるま湯を掛けますので、もし熱かったら言ってくださいね」
「…うん、この程度なら問題ないと思います。それで、僕はここに立っていればいいですか」
「ええ、お願いしますね」
白姐は奥の部屋から桶一杯のぬるま湯を持ってきて、温度を確かめるように僕に突き出した。そのお湯の中に手を突っ込んでみるとじんわりとした温かみがあり、熱くはなかった。まあ手は比較的耐熱があるから肩にかけられたときどうなるかは…定かではないか。
まあ熱いかもしれないが包帯を外さないわけにはいかない。僕は部屋の隅に置かれたタライの中に立って白姐に肩を向けた。




