【第二章52】憶測はあやふやで
「わたしはね、朴の坊ちゃま。俊什君が誰かの命令だとか黒幕がいてだとかで坊ちゃまを死に追いやろうとしたなんて思っちゃいない。なんせ、彼は大変に自我が強くて誰かに粛々と従うような性格ではないし、仮にそうだとしても朴総監様のご子息を狙おうだなんて考える者は…いないとは言いきれないけど、かなり少ないよ」
「ですが言いきれないだけでいるにはいる、違いますか?」
「ああ、まいったな。説明が難しくなってきた」
段々橙恩の煮え切らない態度に腹が立ち、ため息を漏らす。静かな部屋だとどれだけ小さな呼吸音でも大きく聞こえてしまい、橙恩は気まずそうに頬を掻いた。
「つまり、今回の事は俊什君の独断であって組織的な行動じゃ無いって言いたいんだ。もし組織的な犯行なら、今回生きたまま爆破炎上したあの被害者も俊什君か、もしくは彼の後ろにいる誰かが仕組んだことになる」
一度そこで切り、橙恩は僕が口をはさむ間もなく続けた。
「大きな組織は絶対にそんなことはしないよ。無闇矢鱈に民間人に危害を加えることはしない。なんてったって目立つからね。だから俊什君がたまたま発生した騒動に乗っかっただけなんじゃないかとわたしは考えてるんだ」
「…そこまで考えているのに、どうして僕が濡れ衣を着せられた時訂正しなかったんです?」
「訂正する?わたしが?申し訳ないけど何を?」
橙恩は首をかしげて心底分からないといった様子で繰り返した。
同時に石油灯が大きく揺らめくせいで出来る不安定な光と影が踊り、部屋に不規則さを与えて不気味な雰囲気を作り出している。すぐ近くに光源があるはずなのにまるで遠くの焚火を見ているような寒さにも似たぞっとする感覚が胸を占めて膝上の拳に力を込めた。
「坊ちゃまが俊什君の策略にはまってしまったのは可哀そうだとは思うけれど、わたしは坊ちゃまたちと別れる前以上の事は全く知らない。それに残方中将にはわたしが知っていることは全て話したよ。今坊ちゃまに話しているのはあくまで憶測。わたしの憶測を語って坊ちゃまの状況が良くなるとは思えないけれど…」
「…橙恩さんの考えは分かりました。では仮に本当に俊什さんの独断であって、彼のみの犯行だったとしましょう。ですが、たとえそれが憶測であろうと言うべきだったのではないですか。橙恩さんは知っていたんでしょう、俊什さんと僕は少なくとも僕が射貫かれる少し前まで一緒にいたのだと。ではその憶測を話せば少なくとも僕が北鰐の間者だとか、民間人が爆破炎上した事件の犯人ではないと分かるのではないですか?それとも中将様や他の人が無駄な調査をして、余計な対立をしたりや分裂するのを見るのが楽しかったんですか?それともご自身の部下である俊什さんを庇ったんですか?」
僕が一気に捲し立てると橙恩は黙り込んだ。たまたまだろうが石油灯の光が彼の顔から逸れて僕からは橙恩の顔が暗がりに溶け込んで表情が全く分からない。
橙恩がどう思っているのかなどは表情が見えない為全く分からないが、しかし彼は座る体制を変えたらしく、その拍子に何か硬い金属音がイスにぶつかったような音はかすかに聞こえてきた。その金属音がなんなのか考えるより早く寒気が背筋を走った。
僕は完全なる丸腰だが、橙恩は違う。巡回の業務を抜け出してきた為に彼の腰には武器が下がっているのだ。もし彼が良からなぬことを考えていればすぐに実行に移せる。…そう、また俊什の時のように、胃がひっくり返っているかのような気持ち悪くなるほどの痛みを、もう一度味わうことになるかもしれない。
「坊ちゃま、わたしは」
「すみません、明日の準備がまだ残っているので僕は戻ります。白姐さんにも薬の時間には戻るように言われていますので」
橙恩が何か話そうとするのを僕は立ち上がることで遮り、その先の言葉に耳を貸すこともなくドアに手をかけた。
ノブを回す直前で肩をつかまれドアから引き離された。橙恩は僕の肩を掴んで後ろに下がらせると僕の手に紙を押し付けてきた。
「まあまあ焦らないで。落とし物をしているじゃないか…しかも、大切そうな手紙。これを忘れてしまっていたら勿体ないんじゃないかな?」
「ッいつの間に、い、いえ。ありがとうございます」
僕はいつ落としたのか、出した覚えすらもないその手紙を懐へ戻し、再度ドアノブにッ手をかける。もう橙恩は僕を引き留めようとする素振りはなかったし、黄色に近い橙色の明りに照らされた橙恩の顔は普段のように少し軽薄そうでありながら穏やかな表情だった。




