【第二章50】牙を向ける
「誰が…誰が嫌だと言いましたか。勘違いも甚だしいですよ、僕はこれぽっちも恐れてなどいません。あなたが何を話すか、どこへ行くつもりなのか全く言わないから疑心があるんです。全て話してくれたなら僕だって、こんな愚かなことは尋ねたりしません」
ここまで言われたら黙っている方が難しい。僕が苛立ちを抑えながらも刺々しく言い返す。すると橙恩は意外そうに目を丸くしながらも、不思議なことに少し微笑んで組んでいた腕を解いた。
「そうでしたか、すみませんねぇ。歳をとるとどうも言葉が足りなくなってしまうね。しかしさすがは坊ちゃまだ、毅然として素晴らしい精神をお持ちになっている」
わざとらしく、芝居掛かった仕草で拍手をして涙ぐむ真似までして見せる。橙恩は満足しているような明るいため息を吐いて続けた。
「えぇ、わたしは坊ちゃまが気になっているであろう俊什君のことと、あの事件で分かっていることを教えて差し上げたくてね。だけど、このことは一部の人間にしか伝わってなくて…まあ所謂機密事項というか…大っぴらには話せない事情があるんだよねぇ」
「なるほど、だから」
「ええその通り!だからこそ、周りに聞かれる心配のないわたしの部屋へと案内しようと思った次第だとも!」
橙恩は食い気味に続け、僕が反応するより早く僕の肩を掴み寄せ半ば強制的に彼の隣に引き立たせた。僕が非難の意を込めて橙恩を睨むが全く効果を伴わず、彼はただ微笑むだけだった。
「わたしの部屋とは言ったけどもね、半ば物置のような執務室のことなんだ。普段はあちこち走り回るものだから、あまり使わないんだ。だけど今回のように大っぴらには口にできないことを話す事にはぴったり!多少埃っぽいのは目を瞑りさえすればね」
僕の言動の何がお気に召したかは知らないが随分と上機嫌で橙恩はそう続け、その隣を歩きながら僕は連れられるがままに病棟を出て、その近くにある橙恩の執務室(兼物置)がある二等級宿舎に足を踏み入れた。
白を基調とした病棟とは大きく変わって、頑丈さを重視した薄灰色の無骨な石造りの二等級宿舎の薄暗い廊下を僕も橙恩も黙りこくって歩く。
この基地には三つの宿舎に分かれていて一等級、二等級、三等級とある。一等級は国境を隔てる壁沿い。二等級は病棟の近く、そして三等級は北鰐民族の土地に面した国境門近くと、このように分けられており、それぞれの建物によって備え付けられている設備が違う。
まあ、設備と言っても会議室が多いだとか訓練室があるだとか…まあ必要なものが変わってくるのに合わせているという印象がある。
居心地の悪い沈黙に耐えかねて壁に目を向けて歩いていると、この宿舎に見覚えがあり、見れば見るほどモヤモヤとした違和感が胸を占めた。本当にどうでもいい違和感だったのだがどうも嫌な気持ちになってしまう。
どうも僕はこの構造を見たことがあるらしいけれども、記憶が確かじゃない…壁か?壁に既視感があるんだろうか?いやまあこの壁に特異性なんて全くない、普遍的な壁なんだけれども。いや、ここの建物は大半がこんな感じの壁だって分かっているけども。
というか、なんで僕は壁についてこんな疑問を…?
「ん?どうされたかな朴の坊ちゃま。そんなにまじまじと壁を見つめて…虫でも見つけたかい?」
「いえ…虫じゃ無いんですがね、なんだか壁に見覚えがある気がして。僕はここに来たことはないはずなんですが」
「壁に見覚え?変なことを仰るね。どこにでもある壁だよ」
「それはそうでしょうね。僕だって壁に詳しいわけじゃありませんがこの全体…あ、この建物の構造に見覚えがあるんです」
「ああ、それもそうでしょうね。全ての宿舎は同じ構造ですから。壁というより構造に覚えがあるのも無理のない話でしょうね。ちなみに、坊ちゃまが倒れていらっしゃったのも坊ちゃまの宿舎の裏手側ですよ」
僕の宿舎、というと三等級宿舎か。僕が気絶する前に見たのがその宿舎の壁なら、僕がこの壁を倦厭するのもまあ…あの時の絶望感を考えればやむを得ないか。これも一種の自己防衛本能何だろう、誰だって一度死にかけた場所にもう一度行きたいとは思わないに決まってる。
…まてよ、このまま自分の宿舎に戻るってなると毎日自分の死にかけた寸前の景色を見なきゃいけないのと同義では?
そう考えると自分でも止められない恐怖が体を縛り付けて、自然と指先が冷えてしまって体が強張ってくる。橙恩は知ってか知らずか少し足を速め、少し前方の扉を開けて僕を促した。
「さ、坊ちゃま。お先にどうぞ」




