【第二章32】風の噂にも限度あり
「半分はね。父の影響って言ったら嫌ですがまあ無くは無いんじゃないですか。普段は母の名字付きで呼ばれてましたがね」
僕の机に溢された哀れな白い粒を見てため息をつきながら答える。あとで拭く手間が増えてしまったじゃないか…面倒なことをしてくれたものだ。
「おっかさんの名字だぁ?軍の総監よりも有名なのか?」
「あなたが聞いたことがあるかは知りませんが、僕の地元…夕崢ではそれなりに。元々夕崢は滋養にいい土地で医療も盛んですからその関係でね。ちなみに母の名字は華です」
良然は記憶をまさぐっているのか右側の窓をぢっと見つめて黙り込んだ。その隙に机の上を軽く拭いてもピクリとも身じろぎせず考えている。
「知らないのも当然ですけどね。地方の名家とか知らなくて当たり前でしょう」
「いやまて、聞いたことあんだよその名前。華だろ?誰かの…ああ!思い出した!あれだ、有名な医者が家系にいたろ?華…なんたらってやつ!」
「誰を指してるでんすか、大体は華なんたらですよ」
「俺の幼馴染の男が勉強してるときに話してた気がすんだよな、医者の家系で精神科医になった異端がどうのって」
「あー…華那寿?」
「多分そいつ!」
曖昧な記憶をどうにかこうにか引っ張り出したのか嬉しそうに手をたたいて喜ぶ。その様はまるで猿みたいで、いや悪気があってそう思っているわけではないのだが本当に猿みたいな喜び方をするのだ。
それにしたって異端とは…随分な言いようじゃないか。病は気からともいうし、副作用が懸念される薬に頼らずに済むならそっちの方がいいに決まっている。そのために那寿ひいひいじいさんは精神について研究したっていうのに。
「あなたの幼馴染は那寿について他に言っていませんでしたか。本当にそれだけですか」
「いや、いろいろ言ってたけど忘れた」
けろりと言い捨てるその憎たらしい顔ときたら…というか、僕のことを詮索するような真似をして、今更こいつは何がしたいんだ?
「僕についてあれこれ聞く割にはご自身の事については全く話しませんね?僕ばかりべらべら情報漏洩して不公平では?」
「俺か?平凡な農夫の生まれに何を期待しているんだ?実は古代王朝の王の遺児…とか、小説みてぇな話か?そんなんは期待するだけ無駄ってもんだぜ坊ちゃん」
「だれがそんなトンデモ話を要求するんですか。違いますよ」
けらけらと笑う良然はいつも以上に冗談ばかりを口にする。もう酔っぱらっているのかと思うぐらいだ。確かに薬用酒としては度数が高いが、彼の話し方や訛りを聞く限り北の方の出身らしいし、三杯程度では酔わないような気がするのだが…
「で、あなたはどこ出身でしたっけ。北の方…もしくは中央ですか?」
「中央の北はずれのちっせぇ村だよ。昔は賑やかだったって爺さんが言ってたが、今は寂れ切ってら…」
郷愁交じりに小さな笑い声を上げてゆっくりと酒を飲み込む。しばらく帰れていないのだろうか、コイツにも故郷を思って寂しく思うセンティメンタルな所があったのかとひっそりと驚く。まあやはり人の子ということだろう。
「雪が溶けたら帰郷届を出してはいかがですか。ご両親に顔を出すのも大事でしょう」
「いや、親父と顔合わせたらまずいことになるからいい。最悪鍬もって村中追いかけまわされて畑に埋められちまう」
「なにしたんですか」
「それがさ、これっぽちもわからねぇんだよなぁ~…なんか手紙が駄目だったらしいが、俺の手紙の何が駄目だったのかサッパリわからん」
…こいつならやりかねないと思わせる何かがあるのが恐ろしい。何が失礼か、何がそうじゃないか分かっていないようなやつのことだ。きっと僕には想像もつかないような事をしでかしたに違いない。そう考えるとなぜ祝辞が書けるのか不思議なぐらいだ。
「中央で働くって言って軍に入ったのが駄目だったか。その報告したらなんかすっげぇ怒られたんだった」
「え、普通は喜ばれるものでは?」
「うん、まぁ地元の事件があったからな。でもそれはそれだろ?俺が入隊してもそれとは関係ねぇじゃんよ。でも寂れたちっさい村だったし、やっぱ排他的な考えはあったんだろうな。あぁーあ…長林はなぁーんも言われなかったのになぁ」
長林…地元の友人か何かだろうか。良然が怒られて彼は怒られなかったというのも変な話だ。やはり入隊云々より別の理由があるのではないだろうか。
※中国の文化では夫婦別姓で、子供は基本的に父親の名字を受け継ぎます。ですがここに登場する久藍の母親である華夫人は久藍の父親である黎鳴にベタ惚れなので、周囲に「華」ではなく「朴」の姓で呼んでくれと言いまわっています。
変わり者ですが、名家の娘であることや総監督の夫人であることも相まって周囲は彼女のことを「朴夫人」と呼んでいます。
このような設定がありましたが、あとからもう触れることもないと考えたのでこの場をお借りして説明させていただきました。




