第八章 断愛の微笑み
既に灯りを落とした部屋に、静かに人の気配が近づいてきた。
玲瓏は驚かなかった。
訪れたのが誰であるか、扉の開く音だけで分かっていたからだ。
毎日毎晩、その足音を誰よりも注意深く聞き分けてきた耳が、今もまだ覚えていた。
「……またいらしたのですか」
灯りを持たず、供も連れずに一人で現れた景燦は、いつものような圧を纏っていなかった。
寝所の入り口に立ち尽くしたまま、しばらく動こうとしない。
玲瓏を見下ろすのではなく、どこか同じ高さから見つめるような、珍しい佇まいだった。
「最後に、お前と話をしようと思ってな」
「そうですか」
特に話たいことのない玲瓏は黙っている。
「……俺は、お前を愛してる。今でも。」
「……左様ですか」
景燦も、しばらく無言のまま玲瓏を見つめていた。
簡易として付けた小さな蝋燭の灯りが影を作る部屋の中。
景燦の顔には威厳よりも、どこか戸惑うような色が浮かんでいる。
やがて低く問う。
「……お前は?」
玲瓏は少し考えるように目を伏せ、それから顔を上げた。
窓から差し込む月明かりが、その横顔を淡く照らしている。
そして、ゆっくりと、けれどはっきりと言葉を紡いだ。
「——私は、玉座に座る方に愛されたかっただけで、あなたを愛していたわけじゃありません」
ひとつひとつの言葉を、噛みしめるように口にする。
景燦の瞳が大きく揺らいだのは、灯りのせいではないだろう。
玲瓏には、ようやく本当のことを言えたのだという、静かな安堵だけがあった。
景燦はしばらく黙り込んだ後、掠れた声で問い返した。
「俺を愛していると言ってくれたのは、嘘だったのか?」
玲瓏は小さく首を振り、そして目を細め、柔らかな表情を作る。
皇帝が、今までも、これからも、浴びることのない言葉を聴かせるために。
「——私はただ、玉座に座るあなたに選ばれたかった。あなたの愛を得れば、それだけで私に価値が出ると思っていたから」
部屋の中には、言葉は存在できなかった。
蝋燭の芯が燃える微かな音が耳を擽るほどの静寂。
「だから……私を選んではくれなかった玉座には、もう価値を見いだせないのです」
その言葉は、玲瓏自身が思っていたよりもずっと深く、景燦に突き刺さったようだった。
玲瓏はその力の入っていない指先を見ても、少しも溜飲を下げるような気持ちにはならなかった。
玲瓏は、ふと唇を噛んだ。
(陛下は、きっと知らない。毎晩、自分に抱かれて幸せの顔をしている女の後ろに、この後宮にいる数百人の女の涙があることを)
後宮の狂気は、いったい誰のため為か。
みんな、皇帝陛下ひとりの寵のためだと。
そう呪いのように吐き捨ててやろうか——。玲瓏は燻る。
しばらくの沈黙のあと、玲瓏は静かに口を開いた。
「陛下」
「……何だ」
「他の女は、——どうでしょうね?」
その一言に、景燦が息を呑み、拳を握りしめる。
その沈黙こそが、答えのようなものだった。
玲瓏はふっと笑みをこぼす。
「あぁ、ちゃんと、わかっているんですね」
灯りの下でもはっきりと分かるほどに、景燦の顔から血の気が引き、表情は凍りついていた。
初めて、やっと、景燦は気づいたのかも、しれない。
壊れていたのは、目の前のこの女一人だけではなかったのだ、と。
今この瞬間も、後宮のどこかでは女が泣いている。
皇帝の一瞥だけを頼りに自分の価値を測っている。
自分の寵愛を巡って、何人もの女が知らぬ間に人生をすり減らし、あるいは壊れていったのだろう、と——。
けれど玲瓏は、それをどうこうしてほしいと望んでいるわけではなかった。
自分もまた、その渦の中にいた一人に過ぎない。
今さら他人の運命にまで気を使ってやるなど、更々なかった。
ただ、景燦がそのことに気づかぬまま、これからも同じ渦を回し続けるのだとしたら――。
「知り置いてくださいませ。陛下。その玉座は、それだけの物なのです」
ただ、知っておいて欲しかった。
この言葉が戒めとなるか、呪いとなるかは、景燦帝次第。
景燦は何も答えられないまま、しばらく立ち尽くしていたが、やがて何も言わずに静かに部屋を後にした。
扉が閉まる音が、いつもより重く響いた。




