第七章 空虚の人形
昨日の夜は、大変だった。
謝罪の言葉を聞いた景燦が激高し、玲瓏へ手が上がった。
不敬罪でその場で斬り殺されてもおかしくない程だった。
——頬を打たれた衝撃に、玲瓏の視界が一瞬揺れる。
それでもよろめきもせず、ただ真っ直ぐに景燦を見返した。
肩で息をする景燦の目には、抑えきれない怒りと苛立ちが渦巻いていたが、その奥にどこか戸惑うような色も滲んでいた。
玲瓏が謝罪を拒み続けたことよりも、殴られてなお顔色ひとつ変えず、涙の一粒すら見せない彼女の様子に、むしろ景燦のほうが動揺しているようだった。
頬に広がる熱と痛みを感じながらも、玲瓏の唇には皮肉めいた微笑みさえ浮かんでいた。
熱を持ったその頬さえ、あと数日で燃え尽きる体には、たいした意味を持たない。
打った側の手のほうが、むしろわずかに震えていたことに、玲瓏だけが気づいていた。
——「なにがあったのですか?!」
そう聞く宦官に、玲瓏は平然と答えた。
——「特になにも」
騒ぎを聞きつけた宦官たちが駆けつけたその場で、これ以上手を上げれば、皇帝自身の体面にも傷がつく。
景燦は許さざるを得なかった。
頬を腫らしたまま眉一つ動かさない玲瓏を前に、景燦はそれ以上何を言うこともできず、ただ荒い足取りでその場を去っていった。
宦官たちが慌てて後を追う。
玲瓏は嵐のような足音を目で追うこともせず、ただ静かに羅漢床に寝そべる。
蝋燭の火が小さく揺れていた。——
◇
今日の玲瓏は自室の窓から後宮の様子を眺めて過ごした。
窓の外には、いつもと変わらぬ様子で回廊を歩く皇帝の姿があった。
昨夜あれほど声を荒げ、手を上げたことなど、まるで最初からなかったかのような涼しい顔をしている。
時折笑みさえ浮かべるその横顔を、玲瓏は昨夜の熱を持った頬のことを思い出しながら、ただ見つめた。
(昨夜の激情なんて、もう跡形もないわね)
皇后となった沈明珠が、そんな景燦帝の隣で微笑んでいる。
その屈託のない愛らしい微笑みの下に隠れる嫌味に気づけるのは、対面したことのある女たちだけ。
かつて玲瓏と寵を競った寵妃たちは、今日も皇帝の目に留まろうと着飾り、廊下を行き交っている。
忘れられた妃は、誰にも顧みられぬまま日々を過ごし、庭の隅で一人、日向ぼっこをしていた。
新しく上がってきたばかりの若い妃は、まだ何も知らぬまま、これから訪れる寵の日々を夢見て頬を染めている。
彼女たちは皆、同じ顔をしていた。
景燦の機嫌を窺い、その眼差し一つで一喜一憂する顔だ。
窓越しにその光景を眺めながら、玲瓏はふと、自分がかつて鏡の中で見ていた顔を思い出した。
愛されているときだけ、自分に価値があると信じられる。
愛を貰えなければ、等しく空虚の人形になる。
玲瓏自身も、かつてはその一体だった。
皇帝の一言で笑い、皇帝の無関心で泣いた。
振り返ってみれば、それはひどく脆い生き方だった。
「私だけが、特別に醜かった、わけじゃないわね」
だが、自分が犯した罪が消えるわけではない。
「ただ、私は……私に負けた……」
他の誰もが同じ渦の中にいたとしても、玲瓏が誰かを傷つけたという事実だけは、揺るがずにそこにある。
そして、それを表に出してしまった事が、最大の失敗だった。




