第五章 一脚の椅子
立后の儀の朝——。
玲瓏は出席を免れることはできなかった。
式のために設えられた広間は、幾重にも紅の帳が垂らされ、居並ぶ妃嬪たちの衣も、ここぞとばかりに贅を凝らしたものばかりだった。
誰もが誇らしげに、あるいは値踏みするような目で互いを窺っている。
その中を玲瓏が通り過ぎると、囁き交わす声がぴたりと止み、代わりに好奇と侮蔑の入り混じった視線が一斉に注がれた。
誰一人として、かつてのように玲瓏に道を譲ろうとする者はいない。
玲瓏は末席へと連れて行かれる。
かつて自分がこの椅子に座ることを夢見ていた場所で、今日は沈明珠がその主役を務めるのだ。
案内の女官は玲瓏に目を合わせようともせず、ただ形式的に席を示しただけだった。
太鼓の音が鳴り、楽が奏でられ、朱色の帳の向こうから景燦と明珠が現れる。
明珠は金糸で縁取られた鳳凰の衣。
歩みを進めるたびに、かんざしの真珠が光を弾いて揺れる。
皇帝の隣に並び立つその姿は、誰の目にも眩しく映った。
妃嬪たちが次々と頭を垂れる。
蹴落とし合戦に敗北し、這いつくばる女が、勝者を見上げる姿は惨めだ。
かつての玲瓏なら、景燦帝の横に誰かが立つだけで胸が焼けるほどの嫉妬に苛まれていただろう。
爪が掌に食い込むほど拳を握りしめ、隣に座る誰かに聞こえないよう、必死に感情を押し殺していたに違いない。
——けれど、今の玲瓏はそうしない。
あの頃、目指すべき正妃の椅子は、輝いて見えていた。
あの椅子さえ手に入れば、すべてが報われると信じていた頃があった。
皇帝の隣に立つことこそが、自分という人間の価値を証明する、唯一の方法だと思い込んでいた。
あの椅子に座るためだけに、玲瓏は多くのものを踏みつけ、失ってきた。
でも、今はその輝きを見いだせない。
不思議なほど静かな気持ちで、玲瓏はその光景を眺めていた。
焦がれるほど欲しかったものが、今はただの絹と金糸、それに真珠の重みにしか見えない。
あれほど眩しかったはずの椅子が、今日はただの椅子でしかなかった。
むしろ、なぜあれほどまでにあの椅子を欲しがっていたのか、玲瓏自身が不思議に思うほどだった。
つつがなく式が進んだところで、景燦が立ちあがる。
「それで、玲瓏よ。我が妃に言うことがあるのではないか?」
景燦の言葉が静寂を呼ぶ。
「——いいえ」
玲瓏はゆっくりと目を細め、羽根扇を音もたてずにしっかり閉じる。
「——いいえ、陛下。私からの言葉は、なにも、ございません」
謝罪も寿ぎも、玲瓏は口にしない。
朱色に色付けられた唇は、形を崩すことなく引き上げられている。
「玲瓏様、酷い……っ」
明珠は目元を袖でそっと押さえ、声を震わせてみせた。
「私がこれほど、歩み寄ろうとしておりますのに……陛下の御前で、そこまで意固地におなりにならなくても」
景燦の眉間に深い皺が刻まれる。
明珠の涙に煽られたのか、玲瓏の変わらぬ態度に苛立ったのか、玉座の肘掛けを掴む手に力が入っているのが見て取れる。
「そうかっ!謝罪がないのならば、もう良い!」
景燦の声にいら立ちを隠せぬ怒気が含まれていた。
「玲瓏には賜死を命じるっ!」
◇
玲瓏に下された命を肴に酒杯が幾度も交わされる頃——広間の空気が一変した。
「皇后陛下がっ!」
悲鳴に近い声が上がる。
明珠が杯を落とし、胸を押さえて崩れ落ちたのだ。
金の杯が床を転がり、酒がしみを広げていく。
大宮女が慌てて駆け寄り、脈を診て顔色を変えた。
毒を盛られたと知れるまでに、さほど時間はかからなかった。
式場は一気に混乱に包まれる。
悲鳴、椅子の倒れる音、女たちの足音が入り乱れる中で、誰もが顔色を変え、互いを疑うような視線を交わしていた。
そしてそのうちの少なくない数の視線が、末席に座る玲瓏へと向けられていく。
無理もない。
これまで散々に明珠と争ってきたのは玲瓏だ。
しかも明後日には処刑される身。
どうせ死ぬのならば、皇后まで道連れにしてやろうとした――そう考えるのは、この場にいる誰にとっても、あまりに自然な筋書きだった。
景燦が玲瓏を睨みつける。
「玲瓏よっ、お前かっ?!」
だが玲瓏はただ首を傾げ、他人事のように呟いた。
「いいえ。陛下、私は、毒など盛っておりません」
周囲がざわめく。
近くにいた妃の一人が、信じられないというように玲瓏を睨みつけた。
「嘘よっ!今まで何度も——」
どこからか上がる攻撃の言葉。
「——もう死ぬ私が、そんなことをして何になるのでしょう?」
玲瓏は気にしなかった。
その声はあまりに平坦で、あまりに興味がなさそうだった。
むしろその落ち着きぶりが、周囲をかえって不気味にさせた。
皇帝すら、もう次の言葉を紡げない。
犯人だというなら、もっと動揺するか、あるいはもっと堂々と嘯くはずだ。
玲瓏の態度は、そのどちらでもなかった。
ただ本当に、興味がないのだ。
倒れた沈明珠を遠目に眺めながら、玲瓏はなにも想えずにいた。




