第四章 泡沫の夢幻
その夜、玲瓏は久しぶりに深く眠った。
夢の中で、景燦が笑っていた。
まだ寵を競う前、まだ何もかもが単純だった頃のように、優しく玲瓏の名を呼ぶ。
あたりには見知らぬはずの、けれどどこか懐かしい庭の匂いが漂っていた。
木漏れ日が二人の影を優しく揺らし、風の音さえ、現実よりずっと柔らかく耳に響く。
景燦の指先が頬に触れ、そこに残る熱がやけに優しかった。
夢だとわかっていても、玲瓏はその温もりに、少しだけ触れる。
女の様に白く、それでも大きな手を玲瓏が取ると、景燦が優し気な声音で囁く。
「——玲瓏。俺はお前を選ぶ」
夢の中の玲瓏は、子供のように無邪気に喜んだ。
この手を取れば、すべてが報われると信じていられた、あの頃のままの心で。
周りの景色は霞んでいたが、景燦の声だけは驚くほど鮮明だった。
夢の中でだけは、誰かと争う必要も、何かを証明する必要もなかった。
ただ、名を呼ばれ、選ばれる。
それだけで満たされていた頃の心地よさが、蘇るようだった。
目が覚めると、当然そこに景燦の姿はない。
窓の外はまだ暗く、部屋には静寂だけが満ちていた。
夜着の下、心臓だけが妙に速く鳴っていた。
喪ったものの輪郭を、玲瓏はゆっくりと指先でなぞるように思い出す。
手を伸ばせば届くと信じていたものが、目覚めた瞬間にはもうどこにもないという、その落差だけが、やけに鮮明に胸を刺した。
遠くで夜鳥が一声鳴き、それきりまた静けさが戻る。
処刑まであと僅かしかない現実が、冷えた夜気とともに肌にじわりと染み込んでくるようだった。
まだ夢から抜けきらない体は重く、指先だけがひどく冷えている。
玲瓏はしばらく、臥牀の上で、天蓋の刺繍を見上げたまま動かなかった。
「……あぁ、なんて、嫌な夢なの」
小さく笑った声は、自嘲でありながら、どこか懐かしむようでもあった。
手のひらにはまだ、握られていたはずの温もりの余韻が残っている気がしたが、開いてみればそこには何もない。
玲瓏はようやく、自分が本当は何を求めていたのかに気づき始めていた。
景燦への想いが、すべて偽りだったわけではない。
それだけは、今でも否定するつもりはなかった。
初めて景燦に見初められたあの日、確かに胸が高鳴った。
誰かに特別だと言われることが、こんなにも心を満たすものかと知った瞬間だった。
けれど、玲瓏が本当に焦がれていたのは、景燦という一人の人間ではなかったのかもしれない。
「皇帝に愛される自分」という称号にこそ、しがみついていたのだ。
皇帝の隣に立ちたい。
正妃になりたい。
誰よりも愛されたい。
それさえ叶えば、自分という人間に初めて価値が生まれると、そう信じ込んでいた。
だからこそ、他の妃嬪を蹴落とすことにも、良心の呵責をほとんど感じずにいられたのだろう。
称号を得るためならば、多少の犠牲は当然のことだと、心のどこかで割り切っていた。
玲瓏は静かに、けれどはっきりと自分に言い聞かせた。
「……夢も愛も砕けた成れの果てに、私はならないわよ」
死ぬから、すべてを諦めたのではない。
自分が本当は何を欲しがっていたのか、玲瓏はようやく理解した。
理解したところで取り戻せるものは何もないけれど、それでも、知らないまま死ぬよりはよほどましだと思えた。
臥牀:寝台・ベッド




