第三章 冷春の庭
翌日の朝——。
朝の身支度を手伝ってくれる者は、誰もいなかった。
玲瓏は景燦の好みを映した衣装を自分で脱ぎ捨て、久しく袖を通していなかった、自分が好きだった色の服に着替えた。
淡い緑の衣は、後宮に上がる前、まだ自分の趣味だけで物を選べた頃に好んでいた色。
髪も、誰かに見せるためではなく、自分が心地よいと思う形に流してみせる。
邪魔な髪飾りは、一つも着けない。
それから、宮の庭に出た。
陽射しはやわらかく、庭木の葉が風にさらさらと揺れていた。
玲瓏の庭には、名も知らぬ小さな花々が思い思いに咲き乱れている。
玲瓏はその花の一つに指先で触れてみた。
花弁はひやりと冷たく、露を含んで光っている。
誰かに見せるための微笑みではなく、玲瓏は自然と口元を緩めた。
生垣が揺れたかと思うと、誰かの飼い犬が尾を振って駆け寄ってきた。
以前なら獣の匂いが付くからと、部屋付を呼んで追い払っていただろう。
機嫌が悪ければ、追い出すだけでは足りぬこともあっただろう。
だが今日の玲瓏は、しゃがみ込んでその頭を撫でた。
柔らかな毛の感触に、掌がじんわりと温かくなる。
犬は玲瓏の身分も罪も知らず、ただ嬉しそうに顔を舐めようとしてきた。
睡蓮の咲く池の縁に座る。
靴を脱ぎ、裾をたくし上げて、足で水面に触れる。
足首まで水に沈めた途端、足を締め付けていた固い板と締め上げる布の痛みがゆっくりと溶けていった。
纏足によって縮められ、まっすぐに伸ばすことさえ叶わなかった爪先が、水の中でわずかに自由を取り戻す。
冷たい水が肌を撫でる感覚に、思わず声を漏らして笑った。
不意に、背後から複数の足音と衣擦れの音が近づいてきた。
振り返らずとも、それが誰であるかは香りでわかった——沈香を焚きしめた、景燦の匂いだった。
少し離れた場所に供の宦官たち残し、景燦が池のほとりに佇む玲瓏の姿を見下ろすようにして佇む。
「反省でもしているのか?」
その声に、玲瓏はふと我に返り、笑みを引っ込めるでもなく、ゆっくりと顔を上げた。
屈託なく笑っていた者にかける言葉としては、あまりに白々しい。
玲瓏が心から反省などしていないことくらい、景燦もとうに承知しているだろう。
それでも玲瓏は悪びれもせず、事も無げな顔で見上げる。
「特に反省すべき物はございませんわ。景燦陛下」
玲瓏は水に浸した足を隠そうともしなかった。
素足を人前に晒すことなど、本来ならば妃としてあるまじき不作法であり、皇帝の御前ではなおのこと不敬にあたる。
けれど景燦はそれを咎める素振りすら見せない。
ならば、と玲瓏も気に留めるのをやめた。
「魑魅どもに隙を与えるからだ」
「琳貞にも、下手を打ったと言われましたわ」
景燦がふと興味を惹かれたように屈み込み、手を水面へ伸ばそうとした。
裾が水に浸かりそうになったその瞬間、玲瓏は何も言わずにその袖を軽くまくり上げ、景燦の腕を支えるように手を添える。
長年染みついた仕草だった。
「謝罪の言葉を考えておけ。降級と言っても、形だけだ。 俺の寵がある限りな」
玲瓏は答えず表情も変えない。
「——陛下、今日の私の衣、如何ですか?似合っておりますか?」
「なんだ、突然に。 あぁ、似合っている。お前はいつも綺麗だ——」
言い終わらぬうちに、景燦の手が親しげに玲瓏の足のほうへと伸びてくる。
玲瓏はその手をわざと避けるように、水から足を引き上げ、静かに立ち上がった。
「よくわかりました。 失礼しますね」
「あっ!おいっ——」
呼び止める声を背に聞きながら、玲瓏は振り返らなかった。
何を言われても、もうこの手に縋る理由などない——今はっきりと、そう思った。
◇
犬と戯れ、水に足を浸し、久しぶりに自分のためだけの朝を過ごした。
つい先ほどまで、あんなにも心は凪いでいたのに——。
けれど結局、景燦は最後まで気づかなかった。
玲瓏の装いが、いつもとは違う色であることにも、髪に何の飾りもないことにも。
玲瓏が、玲瓏の仮面を脱いでいる事にも、気が付かなかった。




