第二章 寵妃の仮面
宮に帰れば、玲瓏を取り巻く景色はすっかり変わっていた。
家柄のない玲瓏が与えられた宮は小さい。
けれど、皇帝の寵愛を盾にかき集めた調度品はどの部屋にも負けない豪華絢爛さだった。
すれ違う侍女たちは誰もが俯き、足音を殺すようにして玲瓏の宮の前を通り過ぎていく。
挨拶の一つもない。まるで最初から、そこに人がいなかったかのように。
かつて媚びるような笑みを浮かべていた者たちの態度の豹変ぶりに、玲瓏は当然のことだと思った。
没落が決まっている女に、誰が愛想を振りまく必要があるだろうか。
鏡台の前に座った玲瓏のもとへ、若い宮女が一人だけやってきた。
他の者たちが逃げるように去った後も、なぜか彼女だけは残っていた。
不遜な態度で衣装箱を運んでくる姿を見て、玲瓏は小さく笑った。
「……あんた、まだいたの」
宮女を横目で見やる。
「元々部屋付は少なかったのに、今回の事でみんな逃げちゃったわよ」
玲瓏の苛烈ぶりについていけない者が多く、部屋付の顔ぶれは常に変わっていた。
このひとり残った宮女の琳貞は、優秀だった。
そして玲瓏と喧嘩することはあれど、出し抜いたりする関係ではなかったのでうまくいっていた。
琳貞は性格が悪かった。玲瓏と同じぐらい。
そして玲瓏と同じく、野心を持っていた。
この後宮で皇后の影となる大宮女になる事——それが琳貞の願いだった。
「あんたは、どうすんのよ?」
「それは玲瓏様の答え次第ね。 降級なんて、下手打っちゃってまぁ……」
琳貞は箱を机に置いて、探るような目で玲瓏を不躾に眺めた。
「それで——新皇后はいつ引きずり下ろすの?」
「なによ、唐突に」
「白々しい。やられっぱなしじゃないでしょう、あなたは。 さっさと陛下のご機嫌とりなさいな」
「……あんた、話聞いてないの?」
「え?今までの悪事が陛下にばれたから降級されるんでしょ?大宮女の婆どもはそう言ってたわよ」
「あぁ、なるほど。もう本当——メンドクサイとことね、ここは」
玲瓏は億劫そうに息を吐き、乱れた前髪の先を指で弄びながら答える。
「私は、婆どもの予定調和の駒になんかならないわ。……あんな女に、誰が謝罪するもんですかっ」
「……駒でも、降級してからでも、皇后にはなれるんじゃない……?」
「そうね……私なら、そうするわよね。今までなら。——でも、もう、いいかなって、思ってるの」
「はぁ?何を気弱な——」
「なんか、疲れちゃったのよ」
言葉とは裏腹に、玲瓏の目は三日月型に歪んだ弧を描いていた。
琳貞は片眉を上げる。
「しっぽ巻いて逃げるんだ?」
「……負けたんだもの。幕引きぐらい、自分でやるわ」
「そう……わかったわ。…………じゃあ私は他所のお部屋に行くわ。幽閉される女についてても、出世、できないもの——」
琳貞は本当に顛末を知らないのだろう。
玲瓏はその言葉を否定せず、本当の事を伝えることもしない。
ただ黙って視線を逸らした。
「これ、用意だけしておいたから。……それじゃあ——さようなら」
琳貞は衣装箱をぽんぽんと叩き、振り返ることなく扉を閉めて去っていった。
玲瓏が箱の蓋を開ければ、見覚えのある一着が現れた。
景燦の好みに合わせて選んだ深緋の絹に銀糸の刺繍がされた衣。
景燦が好きだと言った龍涎香でたっぷりと焚き染めされている。
(陛下が褒めた翡翠のかんざし、陛下から贈られた耳飾り、陛下が——)
どれも景燦帝の反応を思い描いて、玲瓏自らひとつずつ選び抜いた。
「愛されるため」にと。
玲瓏は立ち上がり、それをひとつずつ手に取っては、投げ捨てていく。
絹が滑り落ちる音が、翡翠が硬い床にぶつかる音が、床を這った。
「もう、こんなもの——」
かつん、と耳飾りが床を打つ。
玲瓏はその上に、静かに足を乗せた。
「いらない——」
纏足を無理やり後から施した玲瓏の足は力が入らない。
それどころか踏みつける度に痛みが走る。
それでも、玲瓏は足に力を込めた。
「もう、なんの役にも、立たない——」
皇帝に愛されるため、作り上げてきたもう一人の自分自身を踏みにじる音が、小さく軋む。
ぽたりぽたりと、床に数滴の涙が落ちる。
仮面は、こんなにも呆気なく剥がれ落ちるものだったのかと、玲瓏は他人事のように思った。
長い年月をかけて塗り重ねてきたものが、たった一晩でこうも脆く崩れる。
滑稽だった。
けれどその滑稽さを笑う気力すら、今の玲瓏には残っていなかった。
部屋付:専属の侍女
宮女・大宮女:下働きを担当と指導係




