第一章 廃妃の宣告
玉座の間に、香の匂いが重く垂れ込めていた。
居並ぶ妃嬪たちの衣擦れの音さえ止み、誰もが頭を下げ、息を殺して皇帝の言葉を待っている。
景燦帝は飾り立てられた玉座に座り、何を見るわけでもなく広間を眺めていた。
その視線が誰か一人に留まることはない。
その最前列に、蘇玲瓏は座っていた。
白い肌に映える黒髪を高く結い上げ、長い睫毛を伏せている。
今日という日のために誂えた緋色の衣が、灯りを吸って煌めいていた。
その隣には沈明珠が薄桃色の裳の裾を床に流しながら、落ち着かぬ様子で膝をついている。
「皇后には、沈明珠を立てる」
景燦の短い一言だった。
広間のどよめきが波の様に広がっていく。
明珠が大仰に破顔してみせる。
――あぁ、そう。
玲瓏は睫毛一本も揺らさず、驚きも落胆もなかった。
ただ、長く張り詰めていた糸を断たれたように、ぷつりと終わる感覚。
この三年、彼女が積み上げてきたものが、たった一言で塗り替えられた。
玲瓏は選ばれなかった。それだけのこと。
だが景燦の言葉はそこで終わらなかった。
鋭い眼光に猜疑心を含ませ、玲瓏に視線を留めた。
「加えて……玲瓏。——そなたがこれまで犯した罪、すでに調べはついている」
玲瓏は顔を上げ眉を寄せる。
寵を得るために他の妃を陥れたこと。
侍女に命じて後宮内の情報を探らせ、脅しに使ったこと。
金品を贈り、後宮の人事を意のままに動かしたこと。
偽の文を仕立て、罪なき妃の一人を退けたこと。
数え上げれば、たしかに一つや二つでは済まない。
「二日後、立后の儀を執り行う。そこで、皇后となった明珠に頭を下げよ。そうすれば、降級で許そう」
妃嬪としての表情は動かぬまま、玲瓏の形のいい唇は固く結ばれ、明珠の唇の端がこっそりと吊り上がる。
皇后選定の敗北そのものは死罪にはならない。
けれど、その座を得るために歩いてきた道のりそのものが、今この場で裁かれようとしていた。
「謝罪が行われないならば、その場で宮刑を言い渡す」
広間が静まり返る。
泣き崩れるのか、許しを乞うのか、あるいは沈明珠に掴みかかるのか——。
誰もが玲瓏の反応を窺っていた。
玲瓏はゆっくりと頭を垂れた。
「謝罪も宮刑も、お断りいたします」
その声があまりに静かだったので、広間にいた誰もが戸惑ったほどだった。
「なに?」
顔を上げた玲瓏の目に、媚など微塵もない。
明珠は余裕のあった笑みを微かに崩した。
もっと取り乱し、もっと醜く足掻くと期待していただろう女たちが眉を寄せ、声を潜めた騒めきを止めない。
玲瓏は顔を上げ、晴れやかな顔で微笑んだ。
誰に対してでもない、独り言のような笑みだった。
「どうぞ、賜死をご命令ください」
「賜死、だと……?」
「はい」
景燦の顔から、初めて余裕が消えた。
——「なんと不遜な態度でしょう」
——「これで、明珠様の御代も安泰というものですわね」
——「賜死とは本来、罪人の家門を辱めぬための情け。あの女に、守るべき家名などないでしょうに」
大袖で隠した密やかな会話が漏れ聞こえる。
玲瓏はその声を拾いもせず、ただ静かに下される命令を待っていた。
猜疑心:不信感や深読み
立后の儀:天皇の正妻である皇后を定める儀式
宮刑:本作中では幽閉
賜死:本作中では君主による自殺命令
裳:スカート部分
妃嬪:正室以外の妻妾の総称




