第三十二話 紅い飴細工、喉に刺さる執着
飴細工屋の店内に立ち込める紅い煙は、肺の奥まで焦げ付くような甘さと、腐敗した羽毛の匂いが混じり合っていた。
藤木健吾の眼前では、本来動くはずのない剥製たちが、ギチギチと関節を鳴らしながら包囲網を狭めている。首の長い鶴の剥製が、生気のない硝子の瞳をぎらつかせ、鋭い嘴を健吾の喉元へと突き出した。
「……ッ、下がれ!」
健吾は、執刀用のメスを逆手に持ち、迷いなくその嘴を弾き飛ばした。
手応えはない。切ったのは肉ではなく、古びた藁と、それを繋ぎ止める呪いの糸だ。剥製の断面からは血の代わりに紅い飴の飛沫が飛び散り、健吾の白衣を赤く汚した。
「(……ふ、……じ、……き……っ!!)」
健吾の背後で、宵闇がもどかしげに身を震わせた。
彼女は、声の出ない喉を片手で抑え、もう片方の手を棚にある「紅い極楽鳥」へと伸ばそうとする。だが、飴細工師が練り上げる煙が、鎖のように彼女の細い手首に絡みつき、その自由を奪っていた。
「ひゃははっ!いいぞ、先生。……そのメスで、何千何万という死者の執着を切り裂けると思っているのかい?」
飴細工師が、七輪の上でどろどろに溶けた飴を、巨大な鋏で切り分ける。
その飴が床に落ちた瞬間、それは粘り気のある「影の獣」へと姿を変え、健吾の足元に喰らいついた。
「……ぐ、っ……!」
足首に走る、焼けるような熱。
健吾は苦悶に顔を歪めたが、その視線は決して宵闇から逸らさなかった。彼は、自らの足に絡みつく影をメスで断ち切りながら、宵闇の耳元で、自分でも驚くほど冷徹で、そして熱を帯びた声で囁いた。
「宵闇。……君は、黙って見ていなさい。……江戸の王を、このような見世物に貶めた報いは、私が『外科的』に精算させます」
健吾は、鞄から一本の注射器を取り出した。
中に入っているのは、彼が独自に開発した高濃度の鎮静剤……ではない。それは、宵闇の「黒い煤」を医学的な触媒として定着させるための、水銀混じりの特殊な溶液だった。
「……君の魔力と、私の執着。……どちらが深いか、試してみましょう」
健吾は、自らの左腕にその針を突き刺した。
血管を駆け巡る異質な熱。
刹那、健吾の視界が歪み、世界の色が反転した。
彼には見えていた。剥製たちを操る糸の結び目が。そして、棚の極楽鳥の中で、宵闇の「言霊」がどのように脈打っているのかが。
「(……っ!? フ、……ジ、……キ……!!)」
宵闇の紅蓮の瞳が、驚愕に見開かれた。
彼女には分かった。目の前のこの「人間」が、自分の領域に足を踏み入れるために、自らの精神を、そして命を削り始めたことが。
宵闇は、声の出ない口をパクパクとさせ、健吾の白衣をちぎれんばかりに掴んだ。
それは、助けを求めるためではない。自分という「闇」に汚されていく健吾への、激しい独占欲と、それを上回るほどの「拒絶」の混じった愛おしさだった。
「……邪魔だ。……その飴細工を、返しなさい」
健吾は、襲いかかる猿の剥製を、一閃のもとに切り伏せた。
彼の動きは、もはや人間のそれではない。宵闇の魔力を身に宿した「半人半妖」の処置。
彼は、紅い煙を突き破り、飴細工師の眼前に迫った。
「な、……貴様、人間をやめる気か!?」
「患者を救うためなら、……神であれ悪魔であれ、利用するのが医師の仕事だ」
健吾のメスが、飴細工師の法被を切り裂いた。
飴細工師が悲鳴を上げ、七輪を倒す。床に広がった熱い飴が、店内の剥製たちを一斉に燃え上がらせた。
燃え盛る紅い炎の中、健吾は棚にある「極楽鳥」を掴み取った。
その瞬間、鳥の中から、宵闇の声が、何百もの絶唱となって健吾の脳内に響き渡った。
『 ――死ね、 ――愛せ、 ――喰らえ、 ――藤木……!! 』
「……っ、……ぁああああ!!」
あまりの情報の奔流に、健吾の目から血の涙が溢れる。
だが、彼は決してその飴を離さなかった。砕け散ろうとする「極楽鳥」を、自らの胸に強く押し当てた。
「宵闇!……受け取りなさい。……これが、君の……本当の『音』だ!!」
健吾は、飴細工を自らの手の中で粉砕した。
砕けた飴の破片が、光の粒子となって、宵闇の喉元へと吸い込まれていく。
「(……っ、……ぁ、……ぁあああああああああ!!)」
宵闇が、天を仰いで叫んだ。
声はまだ、出ない。
しかし、彼女の全身から溢れ出した魔力は、店内の紅い炎を漆黒の闇で塗り潰し、飴細工師を、そしてすべての剥製を一瞬にして無に帰した。
静寂が戻った、焼け焦げた飴細工屋。
健吾は、膝を突き、激しく喘いでいた。自らの腕に刺した注射の跡から、黒い血が滴っている。
「……宵闇。……声は、……戻り、ましたか……?」
健吾が弱々しく顔を上げると、そこには、かつてないほど妖艶で、そして悲しげな微笑みを浮かべた宵闇が立っていた。
彼女は、声の出ない喉を愛おしそうに撫でる健吾の手に、自らの手を重ねた。
彼女の指先が、健吾の手のひらに、一文字ずつ。
今度は、石筆も黒板もいらない。
彼女の「魔力」そのものが、健吾の肌に刻印されるように綴られた。
『 バ カ ナ 、 オ ト コ 』
そして、彼女は健吾の頬を引き寄せ、その唇に、冷たい、しかし確かな「誓い」を押し当てた。
言葉はまだ、完全には戻っていない。だが、二人の魂は、浅草の地獄の中で、もはや引き剥がすことのできないほど深く、絡み合ってしまった。




