第三十三話 言霊の解放、初めて呼ぶ名
焼け焦げた飴細工屋の内部は、紅い炎と漆黒の煤煙が渦巻く、この世の果てのような様相を呈していた。
藤木健吾は、膝を突き、激しく喘いでいた。自らの左腕に突き刺した水銀混じりの特殊溶液が、血管を灼き、視界を赤く染め上げている。目からは血の涙が伝い、白衣の胸元を汚していたが、その手だけは、砕け散った「極楽鳥」の飴の破片を、宵闇の喉元へと捧げるように差し伸べていた。
「……っ、……宵、闇……。受け、取れ……っ!」
喉を焼くような呼気と共に、健吾が絞り出す。
その眼前で、宵闇がゆっくりと、浮遊するように立ち上がった。
砕けた飴の粒子が、彼女の白磁の喉へと吸い込まれていくたび、彼女の全身から立ち上る「格」が、物理的な圧力となって周囲の空気を圧壊させていく。若草色の銘仙は、内側から溢れ出す黒い魔力によって、瞬く間に夜の闇よりも深い漆黒のドレスへと変貌を遂げていた。
「(……ぁ、……あ、……あ……っ!!)」
彼女は、天を仰いで悶えた。
喉の奥で、氷砂糖の呪縛と、奪い返した言霊が激しく衝突し、火花を散らしている。
飴細工師は、七輪の火に巻かれながら、顔の半分を覆う包帯を燃やし、狂ったように笑い声を上げた。
「無駄だ、無駄だ!江戸の執念は、一度練り上げられれば二度と解けぬ!その声は、もう、お前の喉を焼き切る刃でしかないのだ!!」
飴細工師が残った飴をすべて喉に流し込み、自らの体を巨大な「紅い蜘蛛」のような怪異へと変え、宵闇へと飛びかかる。
その瞬間だった。
宵闇の紅蓮の瞳が、一際鮮烈に、世界を焼き尽くすほどの輝きを放った。
彼女は、健吾の血に汚れた手を、自らの喉元へと優しく引き寄せた。
健吾の指先が触れる。そこには、熱狂的な拍動と、今にも爆発せんとする「言葉」の塊があった。
「……ふ……じ、き……」
それは、地を這うような掠れた音だった。
だが、次の瞬間。
宵闇は、その圧倒的な意志をもって、自らの喉を縛る「江戸の因縁」を、力ずくで噛み砕いた。
「――藤木ッ!!」
浅草の夜を、一筋の雷鳴のような声が貫いた。
それは、もはや人間が発し得る響きではなかった。
銀鈴の可憐さと、地獄の業火の猛々しさが同居した、絶対的な「王」の咆哮。
その声の衝撃波だけで、襲いかかった飴細工師の体は、硝子が砕けるように一瞬で粉砕され、店を包んでいた紅い炎も、一吹きで消し飛ばされた。
――静寂。
そして、暗闇の中に降るのは、宝石のように煌めく紅い飴の塵。
宵闇は、漆黒のドレスの裾を優雅に揺らし、膝をつく健吾の前に舞い降りた。
彼女の首筋から胸元にかけて、黒い桔梗の紋様が、生き物のように妖艶に波打っている。かつてないほどに力に満ち溢れ、その美しさは、見る者の正気を奪うほどに残酷だった。
「……藤木。……私の、愚かな主治医よ」
取り戻した声は、蜜のように甘く、しかし心臓を掴み取るような冷徹な響きを帯びていた。
彼女は健吾の頬に手を添え、血の涙を指先で拭い取ると、そのままその指を自らの唇に当てた。
「お前の血は、……鏡介の毒よりも、ずっと、私を熱くさせる」
宵闇は、健吾の顎を強引に持ち上げ、彼を射抜くように見つめた。
声を取り戻した彼女は、もはや「令嬢の器」を演じることすら忘れたかのように、怪異としての本性を全開にしていた。
「(……っ、……あ、……ぁ)」
健吾は、声が出なかった。
あまりの美しさに。そして、自分が救ったはずの存在が、自分を遥かに超越した「神域」へと戻ってしまったことに。
だが、宵闇はそんな彼の絶望を見透かすように、艶やかに微笑んだ。
「安心しろ。……お前が私のために命を削ったその対価、……たっぷりと思い知らせてやる」
彼女は健吾の耳元に唇を寄せ、熱い吐息と共に、呪いにも似た誓いを囁いた。
「……お前の名は、もう、私の喉の奥に刻まれた。……死ぬまで、……いや、死んだ後も、……私に呼ばれ続ける覚悟は、できているな?」
その言葉と共に、宵闇は健吾の唇を、奪い取るようにして塞いだ。
喉の奥に残る、かすかな飴の甘さと、健吾の鉄のような血の味。
二つの味が混ざり合い、浅草の闇の中で、一つの完成された「狂気」へと昇華していく。
飴細工師の消えた店内に、宵闇の低い、しかしこの世で最も美しい笑い声が響き渡った。
江戸の怨念を力に変え、王は帰還した。
そして、彼女の隣には、自らの理性を贄として捧げた、一人の「主治医」が、その美しさに跪いていた。
「……さあ、帰ろう、藤木。……今夜は、……私がお前を『診断』してやる」
月光が、焼け焦げた暖簾の隙間から差し込み、二人の歪な影を一つに結んでいた。
鏡介の思惑を超え、二人の絆は、もはや救いようのない深淵へと、その根を深く、深く、下ろしていた。




