第三十一話 見世物小屋の怪、剥製たちの夜
浅草奥山。そこは、帝都の光が届かぬ、湿った歴史の吹き溜まりだった。
紅い暖簾を潜った瞬間、藤木健吾の肺を突いたのは、砂糖が焦げる甘ったるい匂いと、古い防虫剤、そして、死んだ獣の毛が焼けるような鼻をつく異臭だった。
店内の明かりは、天井から吊るされた幾つかの小さな裸電球と、奥の作業場で揺らめく七輪の火だけだ。その頼りない光に照らし出されたのは、棚一面を埋め尽くす、数多の「飴細工」だった。
だが、それは縁日で子供たちが喜ぶような代物ではない。
指先ほどの小さな小鳥、喉を掻き切られたような女、そして――苦悶の表情で口を開けたまま固まった、精巧すぎる人間の頭部。
それらすべてが、毒々しいほど鮮やかな「紅い飴」で形作られ、硝子細工のように滑らかな光沢を放っている。
「(……っ、……ぁ、……っ!!)」
健吾の白衣を掴む、宵闇の指に力がこもった。
彼女の喉は、かつてないほど激しく波打ち、声にならない悲鳴を上げている。彼女の紅蓮の瞳は、棚の一角に置かれた、一羽の「紅い極楽鳥」の飴細工に釘付けになっていた。
その鳥の喉元が、まるで心臓のようにドクドクと脈打っているのを、健吾の医師としての鋭い眼精も捉えていた。
「いらっしゃい、先生。……それと、声の出ないお姫様」
奥の暗がりから、ひょろりと長い影が立ち上がった。
飴細工師――そう呼ぶには、その男の風貌はあまりに異様だった。
使い古された継ぎ接ぎだらけの法被を纏い、指先は飴を練り続けた結果か、節くれ立ち、どす黒く変色している。顔の半分を包帯で隠し、唯一覗く右目は、濁った琥珀色をしていた。
「……鏡介に、ここで『声』が溶けていると聞いた。……君が、この店の主か」
健吾は、宵闇を庇うように一歩前へ出た。
その背中で、宵闇はもどかしさに地団駄を踏み、健吾の背中に向かって、指先で荒々しく文字をなぞった。
『 ソ レ 。 ワ タ シ ノ 、 オ ト 』
健吾の皮膚に刻まれる、鋭い爪の感覚。宵闇は、棚にあるあの極楽鳥の中に、自分の奪われた言霊が閉じ込められていることを確信していた。
「鏡介様から聞いておりますよ。江戸の王が、声を忘れて迷い込んでくると。……見てごらんなさい、先生。この飴の輝きを。……これはね、ただの砂糖じゃない。……行き場を失った女たちの『絶唱』を練り込んで作ってあるんだ」
飴細工師は、七輪の上で熱せられた、どろりと溶けた紅い塊を竹串ですくい上げた。
すると、その粘り気のある塊から、何十人もの女たちが同時に啜り泣くような、耳を塞ぎたくなるような不協和音が漏れ出した。
「(……っ、……な、……なな、……っ!!)」
宵闇が、屈辱に顔を歪ませた。
彼女は健吾の腕を振り払い、ふらつく足取りで一歩前へ出る。
声は出ない。だが、彼女の全身から立ち上る「格」の違いを象徴する黒い煤が、店内の埃を巻き上げ、棚の飴細工たちを一斉にカタカタと震わせた。
「……ほう。声を失ってもなお、その威圧。……流石は宵闇の姐さんだ。……だが、無駄ですよ。……あんたの言霊は、今、この『絶唱飴』の芯になっている。……無理に動かせば、あんたの喉は二度と鳴らなくなる」
飴細工師の指先が、流れるような動作で竹串を操る。
彼が飴を練るたびに、店内の壁に立てかけられた古い「剥製」たちが、ギチギチと音を立てて動き始めた。
見世物小屋の裏で放置されていた、首の長い鳥や、毛の抜けた猿の剥製。それらが、紅い飴によって魂を吹き込まれたかのように、不自然な角度で首を曲げ、健吾たちを包囲していく。
「……非科学的な。……死んだ肉体が動くなど、断じてあり得ない」
健吾は、震える手で鞄からメスを取り出した。
医師としての常識が、目の前の光景を否定しようと叫んでいる。だが、その隣で、宵闇は冷ややかに微笑んでいた。
彼女は声の出ない唇を動かし、健吾にだけ分かるように、その「手」を握りしめた。
宵闇は、健吾の手を自分の喉元へと導く。
健吾の手のひらに伝わる、激しい動悸。そして、焼けるような熱。
『 フ ジ キ 。 ワ タ シ ヲ 、 シ ン ジ ロ 』
宵闇は、そのまま健吾の目をまっすぐに見つめた。
紅蓮の瞳が、これまでにないほど深く、そして妖艶に輝く。
彼女は、自分の魔力と、健吾の「医師としての執着」を繋ぎ合わせようとしていた。
「……宵闇。……君は、私に何をさせたいのですか」
健吾の声が、自分でも驚くほど低く響いた。
彼は宵闇の喉に手を置いたまま、飴細工師を睨み据えた。
「君がこの飴に彼女の声を練り込んだというのなら、私はそれを『外科的』に摘出するまでだ。……たとえそれが、この世の道理を外れた手術であろうとも」
「ひゃっひゃっ!面白いことを言う医者だ!……さあ、やってみな。……剥製たちが、あんたの喉を材料にする前にね!」
飴細工師が叫ぶと同時に、動き出した剥製たちが、一斉に健吾へと飛びかかった。
店内に満ちる紅い煙が、宵闇の視界を遮り、彼女の沈黙を嘲笑うように、剥製たちの「偽りの声」が反響し始める。
健吾は、宵闇を背後に庇い、メスを構えた。
暗がりの中で、剥製たちの硝子の瞳が不気味に光る。
宵闇は、声の出ない喉を愛おしそうに撫でる健吾の背中を見つめ、初めて、彼という人間に「守られる」ことの甘美さを、その猛り狂う魔力の裏側で感じていた。
「……私の患者に、手を出すな」
健吾の理性が、初めて「暴力」へと転換された。
浅草の夜、紅い煙の向こう側で、血の流れない、しかし魂を削り合うような残酷な手術が始まろうとしていた。




