第三十話 浅草奥山の呼び声、鏡介の密書
沈黙が支配する久遠寺家の離れ。
庭の池で跳ねた魚の音が、異様なほど大きく鼓膜に響く。藤木健吾は、昨夜から一度も袖を通し直していない鉄色のスリーピースに白衣を羽織ったまま、文机に向かっていた。
彼の視線の先には、一通の和紙がある。それは、今朝がた門前に届けられたという、差出人の名がない密書だった。上質な紙に似つかわしくない、殴り書きのような筆跡。
『 江戸の歌姫は、喉を焼かれて死んだのではない。……その「声」を、飴細工に練り込まれたのだ。
浅草奥山、見世物小屋の並び。一番奥の、紅い暖簾の店へ来な。
姐さんの「音」が、そこで溶けかけてるぜ。 ――土御門 』
「……浅草、奥山……」
健吾が忌々しげにその名を呟くと、背後で絹が擦れる微かな音がした。
寝台から起き上がった綾子ではなく宵闇。乱れた白繻子の寝間着のまま、健吾の肩越しにその手紙を覗き込んでいた。彼女の瞳は、朝の光の中でも昏く、紅蓮の火を宿している。
宵闇は言葉を発する代わりに、健吾の手から万年筆をひったくると、机の上に広げられた診療録の余白に、ペン先が紙を突き破らんばかりの筆圧で文字を走らせた。
『 あの小僧、まだ私を弄ぶつもりか 』
『 藤木。 今すぐ 浅草へ 向かうぞ。 私の 「声」を あのような 泥に塗れた 見世物に させておく つもりか 』
「宵闇、行けません。……今の君のバイタルは、到底外出に耐えられるものではない。それに、これは鏡介の用意したあまりにも見え透いた罠だ」
健吾が振り返り、彼女の細い手首を掴んで制止した。
しかし、宵闇は氷のような冷たい視線で健吾を射抜くと、無言のまま彼の手を激しく振り払った。彼女の喉から「……ッ、……!!」という、もどかしさに満ちたかすれた呼気が漏れる。
彼女は再びペンを執り、殴り書きを続けた。
『 黙れ、 藪医者。 私の 喉が このまま 石のように 固まったままで いいと 言うのか? 』
『 お前は、 私が 何も 言えぬことを いいことに、 私を この 鳥籠の中に 繋ぎ止めて おきたいだけだろう 』
「…………っ」
図星を突かれたような衝撃が、健吾の心臓を貫いた。
声を失い、自分がいなければ意思疎通すらままならない彼女。その絶対的な依存を、主治医としての義務感という名の仮面の下で、ひどく心地よいと感じてしまっていた自分。
理知的な精神科医としての矜持が、鏡介という不純な触媒によって、泥濘のような独占欲へと変質していくのを、健吾は自覚せざるを得なかった。
健吾の沈黙を「肯定」と受け取ったのか、宵闇は歪な笑みを浮かべ、健吾の首筋に冷たい指先を這わせた。
彼女はそのまま、健吾の耳元に唇を寄せ、音にならぬ呼気だけで囁く。
「(……ぁ、……ふ、……じ、……き……)」
熱い吐息だけが、健吾の鼓膜を震わせる。言葉を持たない彼女の誘惑は、どんな雄弁な毒舌よりも、濃密に健吾の理性を蝕んでいった。
「(……っ、……っ!)」
宵闇は突然、苦しげに喉を抑え、健吾の胸元を拳で何度も叩いた。石筆で叩きつけるように追加された一文は、彼女の「誇り」そのものだった。
『 私は 王だ。 沈黙の ままに 愛でられる 人形では ない 』
ほどなくして、彼女の瞳から紅い色が引き、清楚な綾子の意識が表層へと戻ってきた。
綾子は、自分が書き殴った宵闇の乱暴な言葉を、そしてそれを呆然と見つめる健吾の姿を認めると、悲しげに眉を下げ、健吾の白衣の裾を小さく、震える手で掴んだ。
彼女は健吾の掌をそっと取り、指先で、くすぐるように丁寧になぞった。
『 せ ん せ い 。 ご め ん な さ い 。 』
『 で も 、 わ た し 、 こ の ま ま だ と 、 「わ た し」 が 、 な に か に 喰 べ ら れ て し ま い そ う 』
綾子の指先の震えが、健吾の肌を通じて魂にまで伝わってくる。
江戸の深淵から来た宵闇の矜持と、大正の光の中に生きる綾子の不安。その二つの魂を救う道は、鏡介の指し示した「浅草奥山」という奈落に飛び込む他にない。
「……分かりました。……行きましょう、浅草へ」
健吾は、綾子の手を強く握り締め返した。その瞳には、医者としての冷静さを捨て、一人の男としての、暗い熱情が宿っていた。
「ただし、条件があります。……決して、私の側を離れないこと。……たとえ君の喉が戻っても、君をこの手で繋ぎ止めているのは、他ならぬ私だということを忘れないでください」
綾子は、声を出せない代わりに、健吾の白衣をぎゅっと掴み、深く、深く頷いた。
一時間後。
健吾と綾子を乗せた人力車は、雷門の巨大な赤提灯を抜け、浅草の喧騒の奥底へと突き進んでいた。
仲見世通りの、煎餅を焼く香ばしい匂いや、土産物を売る活気ある声とは裏腹に、浅草寺の裏手――通称「奥山」と呼ばれる一帯は、不気味なほどの湿り気を帯びていた。
猿回しのけたたましい鳴き声、曲独楽の回転音、そして「人魚のミイラ」や「三つ目の赤子」といった、虚飾と怪異が混じり合う不気味な看板が並ぶ。
「(……っ、……っ!)」
不意に、隣を歩く綾子の瞳が紅く染まり、宵闇が戻ってきた。
彼女は、声を出せぬ代わりに健吾の腕に自らの腕を絡め、周囲を威嚇するように睨みつける。その仕草は、銀座での優雅な振る舞いとは異なり、まるで獲物を警戒する美しい猛獣のようだった。
「……藤木。……ここは、……江戸の、……膿が、……溜まっている」
言葉は出ずとも、彼女の表情がそう語っていた。
やがて、迷路のような路地の突き当たりに、一軒の奇妙な店が現れた。
看板はない。ただ、色褪せた「紅い暖簾」が掛かり、その奥からは、砂糖を焦がしたような甘ったるさと、髪の毛が焼けるような不快な匂いが混じり合って漂ってきた。
「(……っ、……こ、……こ……っ!)」
宵闇が、自分の細い喉を爪が食い込むほどに抑え、苦しげに顔を歪めた。
彼女の奪われた「声」が、その暖簾の向こう側で、物理的な質量を持って激しく共鳴している。
「……宵闇、下がっていなさい。何があっても、私の後ろから出ないように」
健吾は、医者としての冷静さを辛うじて保ちながら、その紅い暖簾を撥ね上げた。
薄暗い店内に立ち込める、紅い煙。
そこには、江戸から続く「声」の執着を閉じ込めた、おぞましくも美しい飴細工の雛たちが、棚一面に並んでいた。




