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宵闇の恋わずらい ―冷徹医師は、解けない「愛」を処方する―  作者: 初 未来
第六章 言霊の飴細工と紅い雛

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第二十九話 沈黙の朝、指先だけの対話

 大正十年、初夏の朝。

 久遠寺家の離れには、庭の竹林を抜けてきた湿った風が、格子戸の隙間から忍び込んでいた。


 藤木健吾は、一睡もせぬまま、横たわる綾子の枕元で診療録にペンを走らせていた。金縁の眼鏡は微かに曇り、その奥の瞳には隠しきれない疲労の色が滲んでいる。卓上のランプは既に消されているが、代わりに差し込む朝日は、畳の上に残酷なほど明瞭な縞模様を描き出していた。


「……ん、……っ」


 白い寝台の上で、若草色の銘仙を脱ぎ捨て、薄い白繻子の寝間着に身を包んだ綾子が、ゆっくりと瞼を持ち上げた。


 健吾はすぐさまペンを置き、椅子を引き寄せて彼女の額にそっと手を添える。


「綾子さん、気がつきましたか。……気分はどうです。熱は、少し下がったようですが」


 健吾の問いかけに、綾子は不安げに視線を彷徨わせた。


 昨夜、鏡介の屋敷で味わった、喉を焼くような氷砂糖の熱。そして自分の中に潜む「宵闇」が暴走し、闇を喰らう怪物と化した凄絶な記憶。それらが断片的な悪夢となって、彼女の意識を苛んでいた。


「(……せ、……ん、……せ……?)」


 綾子が唇を震わせ、言葉を紡ごうとした。


 しかし、彼女の喉から漏れたのは、銀鈴のような声ではなく、形を成さぬ、掠れた吐息だけだった。


 綾子の瞳が、驚愕に大きく見開かれる。彼女は何度も口をパクパクとさせ、自分の細い喉に指先を当てた。


「(……っ、……あ、……あ、……ぁ……っ!!)」



 声が出ない。



 誰からも愛された彼女の可憐な声は、深淵の底に沈んだように、一切の響きを失っていた。


 綾子の目から、大粒の涙が溢れ出した。彼女は健吾の白衣の袖をぎゅっと掴み、声にならない悲鳴を上げながら、彼の胸に顔を埋めた。


「落ち着いてください、綾子さん。……大丈夫です、これは一時的な症状です。鏡介の使った呪具が、君の喉を一時的に縛っているだけだ。……私が、主治医である私が、必ず治してみせます」


 健吾は、震える彼女の背中を、言い聞かせるように何度も撫でた。


 だが、その心の内は、鏡介への煮え繰り返るような怒りと――そして、声を失った彼女を「自分がいなければ生きていけない存在」として独占できることへの、救いようのない背徳的な歓喜に引き裂かれていた。


 その時。


 綾子の体が、ふっと不自然なほどに弛緩した。


 彼女が顔を上げた時、その瞳には、清楚な令嬢のものではなく、地獄の業火を宿した紅蓮の輝きが戻っていた。宵闇だ。


「(……っ、……ちっ、……あの、……不潔な、……小僧……っ)」


 宵闇もまた、声を出そうとして、屈辱に顔を歪めた。


 彼女は健吾の枕元にあった石筆を奪い取ると、横たわったまま、枕元の小さな黒板に猛烈な勢いで文字を刻み始めた。石筆がキリキリと嫌な音を立てる。


『 フジキ、 あの 土御門の 首を 持ってこい 』

『 喉が 焼けるように 不快だ 』

『 早く 冷たくて 甘いものを 私の 喉に 流し込め 』


「……宵闇、君まで。……残念ながら、今の君の喉に固形物は刺激が強すぎる。……氷水で冷やした水飴を、少しずつ飲ませてあげましょう。それが今の私にできる処方です」


 健吾が立ち上がろうとすると、宵闇は無言で、彼の白衣の裾をぐいと引っ張った。彼女は再び黒板に、乱暴な筆跡で、しかしどこか縋るような筆圧で書き足す。


『 どこへ 行く。 側に いろ。 ……あの子が、 怖がって いる 』


「…………」


 宵闇の、不器用な優しさ。


 彼女は自分の怒り以上に、意識の深淵で泣きじゃくっている「綾子」の恐怖を、誰よりも近くで感じ取っていた。


 健吾は溜息をつき、再び彼女の側に腰を下ろすと、宵闇の熱い手を、自分の両手でしっかりと包み込んだ。


「……わかっています。……どこへも行きません。……水飴は、奉公人に持ってこさせましょう」


 宵闇は、健吾の手のひらに自分の手を預け、屈辱に唇を噛み締めながらも、猫のように目を細めて健吾の体温を確かめた。


 声は出ない。術も思うように振るえない。


 だが、その沈黙の部屋に満ちているのは、かつてないほど濃密な、二人だけの「依存」の空気だった。


 健吾は、彼女の熱を持った指先を一本ずつ丁寧にさすりながら、心に誓っていた。


 例え科学の範疇を超えた事象であろうと、彼女の喉から、再び自分を呼ぶ声を取り戻す。それが、彼女を自分に縛り付ける鎖を、より強固なものにするとしても。


 窓の外で、竹林がざわめいた。それはまるで、浅草の闇から忍び寄る、新たな因縁の足音を予見しているかのようだった。

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