第二十八話 夜風の蜜、二人の誓い
嵐のような魔力の奔流が去り、下町の路地裏には、再び重苦しい静寂が降り積もった。
火の見櫓の上で鏡介が鳴らした不敵な笑い声も、今は遠い夜風に溶け、残されたのは煤けた闇と、荒い呼吸を繰り返す二人の影だけだ。
「……宵闇。……宵闇!」
健吾は、力なく膝をつきそうになった彼女の細い体を、壊れ物を扱うような手つきで抱きとめた。
若草色の銘仙は、暴走した魔力の影響か、ところどころが焦げたように黒ずみ、彼女の白い肌には、アメジストの光が焼き付けたような紫の残光が淡く浮かんでいる。
「(……ぁ、……ふ、……じ、……)」
宵闇は、喉を鳴らしたが、やはり言葉は形にならない。
氷砂糖の呪縛を力ずくで食い破った代償は、彼女の「器」である綾子の肉体に、過酷な疲弊をもたらしていた。紅蓮に燃え盛っていた瞳は、今は微かな熱を帯びたまま、焦点の定まらない虚空を見つめている。
「……無理をしてはいけません。……君の術式は、まだ肉体の限界を超えている」
健吾は、自分の震える手を隠すように彼女を背負い直した。
先ほど、鏡の中に見た「江戸を焼き尽くす王」としての彼女。その悍ましくも美しい姿を思い出すたび、健吾の理知的な心臓は、恐怖と、それ以上の狂おしい「独占欲」に激しく脈打つ。
「……帰りましょう、離れへ。……ここは、君に相応しい場所ではない」
健吾は、一歩ずつ、重い足取りで歩き出した。
背中で感じる宵闇の体温は、先ほどよりもさらに上がっている。彼女は弱々しく健吾の首筋に顔を埋め、熱い吐息を彼の頸動脈に吹きかけた。
夜の帳が降りた帝都は、昼間の銀座が嘘のように静まり返っている。
遠くで響く夜警の拍子木の音。どこかの屋敷から流れてくる、物悲しい長唄の旋律。
健吾の背中で、宵闇の細い指が、彼の白衣の襟をぎゅっと握りしめた。
「(……っ、……ふ、……じき、……っ)」
声にはならない。だが、その指の力が、彼女の心の叫びを代弁していた。
――離さないで。
――私を、あの鏡の中の地獄へ返さないで。
「……わかっています。……私は、君をどこへも行かせない。……江戸の炎も、鏡介の術も、私の処方箋がすべて撥ね退けてみせます」
健吾は、背負った彼女の膝を強く支え、夜の風を切り裂くように進む。
やがて、見慣れた久遠寺家の広大な敷地が見えてきた。
静まり返った離れ。そこは、健吾が彼女と出会い、数々の「蜜」を捧げてきた、二人だけの聖域。
部屋に入り、彼女をふかふかの長椅子へ横たえると、健吾はすぐに白衣を脱ぎ捨て、棚から秘蔵の薬瓶と、一つの硝子器を取り出した。
「……宵闇。……いえ、綾子さん。……今の君に、最も必要なのは休息ですが……。その前に、これを」
健吾が差し出したのは、氷水で冷やした、透明な琥珀糖だった。
鏡介の毒々しい氷砂糖とは対照的な、純粋な砂糖と寒天だけで作られた、宝石のような甘味。
「……声が出ない間、君の喉は渇ききっているはずだ。……これは、私が調合した『蜜』です」
宵闇は、虚ろな瞳をゆっくりと開き、健吾の手にある琥珀糖を見つめた。
彼女は震える手で健吾の手首を掴み、そのまま彼の指ごと、小さな甘味を口に含んだ。
「…………っ、……ん……」
ひんやりとした糖衣が砕け、中から溢れ出す優しい甘さが、彼女の傷ついた喉を潤していく。
宵闇の頬に、僅かながらに朱が戻った。彼女は、健吾の指先を離そうとせず、子供のように甘える仕草で、そのまま瞳を閉じた。
宵闇の唇が、微かに動く。
言葉は、まだ戻らない。だが、彼女は枕元にあった石筆を手に取り、力なく、しかし一文字ずつ、健吾の手の甲に直接書き記した。
『 ズ ッ ト 、 ソ バ ニ イ ロ 』
拙い、乱れた文字。
かつて帝都の闇に君臨した女王が、一人の男に宛てた、最も無防備で、最も重い「呪縛」。
「……ええ。……約束しましょう、宵闇。……君が望むなら、私はこの理性を捨ててでも、君の影に寄り添い続ける」
健吾は、彼の手の甲に書かれた文字を、自分の唇で愛おしそうになぞった。
宵闇の薬指のアメジストが、安堵したように、柔らかな紫の光を放って鎮まる。
窓の外では、夏の夜風が竹林を揺らしていた。
鏡介との邂逅は、宵闇の中に眠る「巨大な闇」の片鱗を暴き出したが、同時に、健吾と彼女を結ぶ絆を、救いようのない共依存へと変質させた。
静まり返った離れ。
そこには、眠りに落ちた怪異の美貌と、彼女を見守り続ける一人の狂信的な主治医の姿があった。
大正の夜は更けていく。
虚飾に満ちた銀座の街が、鏡の中に溶け込み、明日の光が差すまで、この沈黙の蜜は、誰にも暴かれることはない。




