第二十五話 沈黙の絶世
鏡介の屋敷の奥、湿った埃の匂いと古びた木材の軋みが支配する一室に、漆黒の桐箱が鎮座していた。
健吾は、宵闇の震える肩を抱き寄せ、冷徹な医師の仮面を被り直して、その箱を見つめた。
「……鏡介。この中に、彼女の『火』を静める薬があると言うのか」
「薬、ねぇ。……先生、あんたはすぐそうやって、都合のいい言葉に置き換えたがる。これは『毒』だよ。……江戸の昔、飢饉と大火の中で、子供の泣き声を吸い取って固められたっていう、飴屋の執念だ。……食えば、あんたのその誇り高い姐さんも、ただの『黙ったお嬢さん』に成り下がるぜ」
鏡介が銀の煙管の先で、桐箱の蓋を跳ね上げた。
中には、琥珀色に変色し、歪な多面体を成した一個の氷砂糖が転がっていた。
それは、大正のカフェで出されるような透き通った甘味とは似ても似つかない。内部には黒い煤のような筋が幾重にも走り、まるで閉じ込められた闇が呼吸しているかのように、鈍い光を放っている。
「……ふん。小僧、私を脅しているつもりか。……江戸の火から生まれた私に、江戸の残滓が効くとでも?」
宵闇が、健吾の腕をすり抜けて一歩前へ出た。
彼女の紅蓮の瞳が、嘲笑うように鏡介を射抜く。
たとえここが鏡介の根城であろうと、彼女のプライドは折れない。むしろ、強すぎる魔力が周囲の空気を歪ませ、天井から吊るされた無数の鈴が、ジャラリと不快な音を立てて共鳴した。
「……宵闇、やめなさい。これはあまりにも不透明な処置だ。医学的なエビデンスも……」
「黙れ、藤木。……お前が守ろうとしているのは、この『綾子』という器だろう? ……ならば、私がこの火を制御して見せれば済む話だ。……小僧、その毒、私が喰らってやろう」
宵闇は迷いなく、細い指先で琥珀色の氷砂糖を摘み上げた。
そして、健吾がその手首を掴むよりも早く、桜色の唇を開き、それを口腔へと放り込んだ。
刹那――。
世界から、一切の音が消失した。
宵闇の瞳が、カッと大きく見開かれた。
彼女の喉の奥から、何かを叫ぼうとする気配が伝わってくる。だが、言葉は形を成す前に、冷たい氷の鎖に縛り付けられたかのように、霧散していく。
「……っ、……あ、……っ」
彼女の口から漏れたのは、銀鈴のような声ではなく、ただの掠れた吐息。
それと同時に、彼女の全身から立ち上っていた、あの圧倒的な「夜の気配」が、潮が引くように消え去った。
漆黒のドレスに縫い取られた銀糸の桔梗が、魔力を失って、ただの冷たい刺繍へと戻っていく。
「……宵闇!?」
健吾が咄嗟に彼女を抱きとめた。
驚くほどに、体が軽い。そして、熱い。
それまでの彼女が纏っていた「不可侵の威厳」は消え失せ、腕の中にいるのは、ただ震えるだけの、若草色の銘仙を着たか細い少女だった。
「ひゃははっ!見なよ先生、傑作だ!あの『帝都の主』が、今や借りてきた猫以下だぜ」
鏡介が腹を抱えて笑い、腰を落として、健吾の腕の中で呻く宵闇の顔を覗き込んだ。
「……よぉ、姐さん。気分はどうだい?喉が焼けるように熱くて、指先一本動かせねぇだろ。……その氷砂糖はな、あんたの『言霊』を内側から食い破るんだ。……今のあんたは、魔力もなけりゃ声も出ない。……ただの、口の悪い美少女様だ」
鏡介が、銀の煙管の先で、宵闇の白い頬をツン、と突っついた。
普段の彼女なら、その瞬間に鏡介の腕を消し飛ばしていただろう。だが、今の彼女は、ただ屈辱に顔を真っ赤に染め、瞳に涙を溜めて鏡介を睨みつけることしかできない。
「(……っ、……な、なな、……っ!)」
声にならない叫び。宵闇は、必死に腕を動かそうとするが、力が入らず、代わりに健吾の白衣の胸元を、ギュッ、と弱々しく握りしめた。
その指先は小刻みに震え、爪が布地に食い込んでいる。
「鏡介!やりすぎだ、手を離せ!」
健吾が激昂し、鏡介の腕を荒っぽく振り払った。
彼は宵闇を抱きかかえ、屋敷の隅にある古びた文机の椅子に彼女を座らせた。
「……宵闇、大丈夫ですか。……すぐに吐き出させます。口を開けて……」
健吾が指を添えようとすると、宵闇はブンブンと激しく首を振った。
そして、机の上にあった画板と石筆をひったくるように掴むと、猛烈な勢いで文字を書き殴った。
『フジキ コイツ コロセ』
『クチ アツい』
『ミツ モッテコイ』
筆跡は乱れ、石筆が折れんばかりの筆圧。
宵闇は、怒りと羞恥で耳まで真っ赤にしながら、その画板を健吾の鼻先に突きつけた。
「……殺せと言われても、私は医師です。……それに宵闇、今の君は非常に衰弱している。……座っていなさい」
健吾がたしなめると、宵闇はさらに顔を赤くし、今度は画板にこう書いた。
『フジキ バカ(』
『コワイ』
二行目の小さな文字。それを見た瞬間、健吾の心臓が不規則な鼓動を打った。
傲慢で、残酷で、不敵だったあの怪異が、今、初めて「怖い」と漏らした。
彼女は、声の出ない喉を抑えながら、健吾の白衣の袖を、すがるように何度も引っ張った。
「……怖かったのですか。……すみません、私の不注意だ」
健吾は、彼女の隣に膝をつき、その震える手を両手で包み込んだ。
氷砂糖の呪いか、彼女の手は尋常ではない熱を持っている。
「(……っ、……ふ、……ふじ、……っ)」
彼女は、声にならない音で健吾の名を呼ぼうとし、そのまま力尽きたように、健吾の胸に額を預けてきた。
いつもなら、彼を翻弄し、冷笑するはずのその唇が、今はただ、浅い吐息を繰り返している。
若草色の着物の奥から聞こえる心音は、あまりにも速く、そして脆い。
「……いいぜ、先生。たっぷりとその『弱りきった獲物』を堪能しなよ」
鏡介が煙管を燻らせながら、薄暗い部屋の隅で目を細める。
「……だが、忘れるな。……その沈黙の底で、姐さんの『江戸の記憶』が目を覚まそうとしてる。……あんた、覚悟しとけよ。……本当の地獄は、パフェの味がしねぇんだ」
健吾は鏡介を無視し、ただ腕の中の、小さく丸まった宵闇を強く抱きしめた。
声の出ない彼女が、彼の背中に回した細い腕。
その重みが、今の健吾には、世界の何よりも重く、そして狂おしいほどに愛おしかった。
帝都の影、江戸の怨念。
そんな大きな言葉はどうでもよかった。
ただ、この「喋れなくなったワガママな患者」を、今すぐこの不浄な場所から連れ出し、甘い蜜を処方してやりたい。
理知的な医師の心は、宵闇の沈黙によって、決定的に壊され始めていた。




