第二十六話 鏡の中の断頭台
鏡介の屋敷の奥底、湿った闇が肺にまとわりつくような沈黙の中で、藤木健吾は腕の中の「重み」を噛みしめていた。
氷砂糖の呪いによって言霊を封じられた宵闇は、若草色の銘仙の袖を健吾の白衣に強く絡ませ、浅い呼吸を繰り返している。その瞳は、怒りと羞恥、そして初めて味わう「無力」への恐怖に濡れ、時折、助けを求めるように健吾を見上げては、すぐに顔を伏せて彼の胸に額を押し当てた。
「……ひゃはは、いい様だねぇ。あの不遜な姐さんが、今や医者先生の心音に聞き入るだけの、ただの迷子だ」
鏡介が銀の煙管をくゆらせながら、部屋の中央にある巨大な「曇った姿見」を引き寄せた。
それは江戸期の作と思われる、青銅の縁取りがなされた古びた鏡だった。鏡面は長年の埃と脂で濁り、映し出される健吾たちの姿は、水底に沈んだ死体のように歪んでいる。
「鏡介、これ以上彼女をいたぶるのはやめろ。氷砂糖の解毒法を教えなさい。……彼女の体温は異常だ。このままでは脳に……」
「医者の理屈はもういいって。……先生、あんたが見なきゃならないのは、バイタルサインじゃねぇ。……この化け物の『中身』だよ」
鏡介が、懐から取り出した真っ黒な符を鏡面に貼り付けた。
瞬間、屋敷全体が生き物のように身震いし、天井から吊るされた無数の鈴が、鼓膜を突き刺すような不快な金属音を立てて鳴り響いた。
「――っ!!(やめろ……それを、見るな……っ!!)」
宵闇が、声にならない叫びを上げ、健吾の腕の中で激しく悶えた。
彼女は片手で自分の喉を掻きむしり、もう片方の手で健吾の目を覆おうとした。その指先は熱く、震え、必死に「何か」を隠そうとしている。
だが、遅かった。
鏡面が波打ち、大正の薄暗い座敷の風景が、真っ赤な「炎」の色に塗り替えられていく。
健吾の視界に、地獄が展開された。
そこは、大正の銀座でも、明治の帝都でもない。
黒い煤煙が天を覆い、瓦礫と化した木造家屋が爆ぜる音が鳴り止まない、江戸の焦熱地獄。
画面の中央に、一人の女が立っていた。
今、健吾の腕の中にいる「綾子」とは似ても似つかない、禍々しいまでの美貌を持った女。
彼女は、燃え盛る江戸八百八町の炎を、まるで美しい着物の裾であるかのように引き摺りながら、ゆっくりと歩いている。彼女が歩くたびに、逃げ惑う人々の「絶望」と、焼け死ぬ間際の「執着」が、黒い霧となって彼女の口元へと吸い込まれていく。
「……これが、彼女の……?」
「そうさ。江戸の大火、疫病、飢饉。……この街が流した血を啜って、彼女は育った。……あんたが今、可愛いと思って抱いてるその震える少女はな、先生。……数万の死者の上に君臨する、断頭台の主なんだよ」
鏡の中の映像が切り替わる。
炎の夜、女は一人の若者に手を伸ばしていた。
その若者は、今の健吾にどこか似た、生真面目そうな目をした書生だった。
だが、女がその頬に触れた瞬間、若者の体は炭となって崩れ落ち、その「命」は宵闇の渇きを癒すためだけの、一欠片の蜜へと変えられた。
「(……違う……っ! 私は、……私は……っ!)」
宵闇が、健吾の胸元で激しく首を振った。
彼女は筆を執る力すら失い、ただ泣きそうな顔で健吾を見つめている。
その瞳が語っていた。
――私は、化け物だ。
――お前も、いつかあの男のように、私の「糧」にする。
――だから、今すぐその腕を離して、私を蔑め。
「……なるほど。これが君の『診察録』の表紙というわけですね」
健吾の声は、驚くほど静かだった。
彼は鏡の中の凄惨な光景から目を逸らさず、むしろ腕の中の宵闇を、より一層強く、折れんばかりに抱きしめた。
「鏡介。君は、彼女が過去にどれだけの命を食らったかを私に見せて、恐怖させようとしたのか?……だとしたら、医者を侮りすぎだ」
「……あ?」
健吾は、宵闇の熱い額に、自分の額をそっと重ねた。
彼女の紅蓮の瞳が、驚愕に大きく見開かれる。
「私は、彼女の過去を治療するためにここにいるのではない。……今、私の前で震え、声を失い、独りでは歩くこともできない一人の『患者』を、救うためにここにいるんだ。……過去にどれほど人を殺した化け物であろうと、今、私の白衣を掴んでいるこの指先が、助けを求めていることに変わりはない」
健吾は、宵闇の頬を両手で包み込んだ。
彼女の肌は、氷砂糖の副作用で火照り、涙の跡が白磁のような皮膚を汚している。
「宵闇。……君は、江戸の主でも、断頭台の女王でもない。……私にパフェを強だり、白玉を喉に詰まらせて赤くなる、我儘な私の……大切な存在だ。……君の過去の闇など、私の処方箋一枚で塗り潰してやる」
「(……ふ、……ふじ、……き……っ)」
宵闇の喉が、ひっそりと震えた。
声は出ない。だが、彼女の瞳から溢れ出したのは、怪異の煤ではなく、熱い、混じり気のない人間の涙だった。
彼女は健吾の首筋に顔を埋め、声の出ない慟哭を漏らしながら、彼の背中に爪を立てた。
それは「喰らう」ための牙ではなく、離れたくないと願う少女の、切実な縋り付きだった。
「……チッ。あー、面白くねぇ。……理屈バカの聖者様かよ、あんたは」
鏡介が忌々しそうに煙管を床に叩きつけた。
鏡の中の炎の映像が、ガラスが割れるような音と共に霧散する。
「……だが、先生。あんたがその『毒』を愛すると決めたなら、代償は高いぜ。……姐さんの喉に詰まった江戸の火が、今度はあんたの理性を焼き始める」
「望むところです。……さあ、宵闇。……帰りましょう。……君の喉を癒すための、とびきり甘い蜜を用意してあります」
健吾は、ぐったりと項垂れた宵闇をおんぶするようにして背負い、立ち上がった。
背中で感じる彼女の鼓動は、まだ速い。
だが、その手はしっかりと健吾の肩に回され、離れることを拒んでいた。
鏡介の屋敷を出る際、背後から不敵な笑い声が聞こえた。
「……また会おうぜ、先生。……次は、あんたが『鏡』の内側へ引きずり込まれる番だ」
夜の帳が降りた下町の路地。
健吾は、喋れなくなった宵闇の重みを背負いながら、一歩ずつ、大正の光の中へと歩き出した。
背中の彼女が、声にならない吐息で健吾の首筋をくすぐる。
それは、どんな魔性の術よりも深く、健吾の魂を束縛していく、甘美な呪いだった。




