第二十四話 江戸の残滓
銀座の華やかなネオンが背後に遠ざかるにつれ、大正のモダニズムが放つ熱狂は、冷たい夜の湿気に飲み込まれていった。
路面電車のレールが途切れ、街灯の数がまばらになる。藤木健吾は、綾子の細い肩を抱くようにして、鏡介に指定された下町の路地の奥へと足を踏み入れていた。
そこは、地図から切り取られたかのような異界だった。
道幅は人一人がようやく通れるほどに狭まり、頭上には隣り合う長屋の軒先が重なり合って、細い夜空を塞いでいる。足元は舗装もされていない泥濘で、どこか遠くで腐りかけた溝板が軋む音が響いていた。
「……藤木。私は、この場所がひどく不快だ」
隣を歩く宵闇が、低く、押し殺したような声で呟いた。彼女が纏う若草色の銘仙は、この泥と闇の迷宮の中では、場違いなほどに鮮やかで、それゆえに酷く危うく見えた。宵闇はショールの端を強く握りしめ、周囲を漂う「淀み」を追い払うように、何度も小さく鼻を鳴らした。
「不快、ですか。君がそう言うのは珍しいですね。……銀座の喧騒よりも、こうした静かな場所の方が、君の『本質』には近いのではないかと思っていましたが」
健吾は、自分の声が微かに震えるのを自覚していた。
医者としての理知的な視線が、目の前の光景を拒絶している。ここには、衛生学も、解剖学も、近代的な論理も存在しない。ただ、江戸という時代が吐き出した、処理しきれない執着と、腐敗した時間の残骸が、澱のように溜まっている。
「……愚かなことを。……ここにあるのは、死に損なった過去の残骸だ。……燃え残り、腐り果て、それでも消えきれぬ執着。……私の『火』を、これほど不浄なものと同列に語るな」
宵闇の瞳は、闇の中でより一層、紅く、昏く燃え上がっている。
彼女の指先が、健吾のスリーピースの袖をギュッと掴んだ。それは、怪異としての威嚇というよりも、得体の知れない「同類」に囲まれたことへの、本能的な嫌悪と、そして――ほんの僅かな「怯え」のように、健吾には感じられた。
やがて二人の前に、歪な構造の古宅が姿を現した。
黒ずんだ板塀は、内側から膨れ上がった何かに押されているかのように外側へ撓み、門扉には紋章すら刻まれていない。ただ、門の前に吊るされた古い提灯だけが、生き物の眼球のように不気味な光を放っていた。
「……来やがったな。案外、早かったじゃねぇか、先生」
門を潜り、玄関らしき場所に足を踏み入れた瞬間、あの紫煙の香りが鼻を突いた。
土御門鏡介は、埃の舞う土間に胡坐をかき、相変わらず銀の煙管を揺らしている。
その屋敷の内部は、異様の一言に尽きた。
床には西洋式の絨毯が敷かれているが、その上には江戸期の古びた木箱や、墨で奇怪な呪印が書かれた半紙が散乱している。壁には、最新の解剖図譜と、中世の地獄絵図が並べて貼られ、天井からは幾百もの「鈴」が、風もないのに微かに震え続けていた。
「君の家か。……衛生学的に言って、お勧めできる住環境ではありませんね。カビと埃の温床だ」
健吾が冷たく言い放つと、鏡介はケラケラと肩を揺らして笑った。
「衛生?へっ、そんなもん気にしてたら、帝都の地下なんて歩けねぇぜ。……特に、そこの姐さんみたいに、『綺麗な器』に収まっちまった連中はな」
鏡介は立ち上がり、宵闇の目の前まで歩み寄った。
宵闇は健吾の背後に一歩下がり、鏡介を射抜くように睨みつける。
「……寄るな、不潔な小僧。……その煙管の煙が、私の髪に触れるだけで、お前の四肢を逆さまに縫い付けてやりたくなる」
「ははっ、相変わらず気性が荒い。……だが、姐さん。あんた、ここに入ってから、胸の奥が『熱い』だろ? ……ここはな、江戸の末期、処刑場の土と火事の灰を集めて建てられた、曰く付きの場所なんだよ」
鏡介の言葉と共に、屋敷の奥から、無数の「声」が聞こえたような気がした。
それは叫びであり、呪いであり、そして――祈りでもあった。
「……先生。あんた、宵闇がどうやって生まれたか、本当に知ってるか?」
鏡介の瞳から、それまでの軽薄さが消えた。
「江戸っていう街はな、何度も火に焼かれ、何度も人が死んだ。その度に、行き場を失った『美への執着』や『生への呪い』が、鏡の中に溜まっていったんだ。……宵闇は、その数百年分の澱が、明治、大正っていう急激な光に照らされて、影として限界まで肥大化した結果なんだよ」
「……澱、だと?お前は、この私を、ただのゴミの集まりだと言うのか?」
宵闇が激昂し、その周囲に黒い煤のような魔力が渦巻き始めた。
天井の鈴が、一斉に激しく鳴り響く。
「……そうだ。ゴミだ。だがな、世界で一番美しく、残酷なゴミだよ。……姐さん、あんたが強すぎるのは、この帝都にそれだけ『闇』があるからだ。……だが、「器」はただの人間だ。あんたがその力を振るえば振るうほど、「器」は熱で焼き切れるぜ。……あんた自身の手で、自分の愛する少女を炭にしたいのか?」
「…………っ!!」
宵闇の言葉が詰まった。
彼女の紅蓮の瞳が、一瞬だけ揺らぎ、健吾の方を見た。
その瞳に宿ったのは、怪異としての怒りではなく、かつて健吾が一度も見たことのない、震えるような「孤独」だった。
「……鏡介。君は、彼女を救いたいのか、それとも、消したいのか」
健吾が、宵闇の震える手を、自分の大きな手でしっかりと握りしめた。
宵闇の肌は、驚くほど冷たく、そして強張っている。
「救う?まさか。俺はただの観測者だ。……だが、先生。あんたが本気でこの化け物を『一人の女』として抱えていくってんなら、一つ、通過儀礼を受けてもらわなきゃならねぇ」
鏡介は奥の卓を指差した。
そこには、一際古い、漆黒の桐箱が置かれていた。
「この中に、江戸の飴屋が命と引き換えに練り上げた『氷砂糖』がある。……姐さん。あんたのその、強すぎる言霊を一度静めてみな。……鏡の中じゃねぇ、本当の自分の『姿』に向き合う覚悟があるならな」
宵闇は、健吾の手をギュッと握り締め返した。
彼女の指先が、健吾の白衣に深い皺を作る。
「……藤木。……私は……」
宵闇の声が、微かに掠れていた。
銀座の王として君臨していた彼女が、今、初めて「自分が何者であるか」という深淵を前に、立ち尽くしていた。
「……大丈夫です。君が何者であろうと、私が君の『主治医』であることを、やめるつもりはありません」
健吾は、宵闇を抱き寄せるようにして、鏡介が待つ漆黒の箱へと歩み出した。
それが、二人の関係を根底から変えてしまう「沈黙」への第一歩であることを、予感しながら。




