第二十三話 紫煙の招待状
銀座での「硝子の迷宮」の狂乱から、三日が過ぎた。
帝都・銀座を襲ったあの怪異の残滓は、新聞紙上では「老舗ブティックでの原因不明の小火と、集団ヒステリー」という、味気ない科学の言葉で片付けられていた。
藤木健吾は、その記事を苦々しく読み捨て、久遠寺家の離れにある診療室の窓を開けた。
初夏の風が、若葉の匂いを連れて部屋に滑り込む。診療室の主であるはずの健吾は、今や一人の「主治医」としての職務を超え、不可解な熱病の虜となっていた。
「……綾子さん。顔色は悪くありませんが、瞳孔の反応が僅かに鈍い。やはり、あの日の『情報の過剰摂取』が尾を引いているようです」
健吾は、目の前に座る久遠寺綾子の手首を取り、脈を測った。今日の彼女は、藤色の小紋に、生成りの細かなレースをあしらった日傘を携えている。清楚で控えめな、非の打ち所がない華族の令嬢。だが、その白磁のような手首に触れるたび、健吾の指先に伝わってくるのは、尋常ではない「熱」だった。
「……先生。わたくし、大丈夫ですわ。ただ、少しだけ……喉の奥が、焼けるように熱い気がいたしますの。冷たいお水を飲んでも、パフェをいただいても、その火は消えなくて……」
綾子が、細い指先で自らの喉元を愛おしそうになぞる。その仕草には、無自覚な色香が漂っていた。
健吾は、彼女の喉の奥に、医学では説明できない「黒い煤」が溜まっているのを幻視した。
「……今日は、日比谷の公園まで歩きましょう。屋敷の空気は、時に停滞しすぎる。日光と適度な運動は、脳の血流を改善します」
「ええ、先生。喜んで」
二人は、初夏の陽光が躍る日比谷へと足を向けた。
帝国ホテルの豪奢な石造りを横目に、噴水広場を抜けて、人影がまばらな柳の並木道へと差し掛かる。柳の枝が風に揺れ、舗道に細長い影を落とす。その影は、まるで水底で蠢く海草のように、不吉なリズムを刻んでいた。
不意に、健吾の鼻腔を、不快な香りが突いた。銀座のカフェの珈琲でも、すれ違うモダンガールの香水でもない。
それは、古い寺院の奥底で数百年分溜まった抹香と、安物の刻み煙草、そして――焼けた土の匂い。
「――お熱いねぇ、先生様。化け物と手繋ぎデートの最中に、無粋な邪魔をしちまったかな?」
柳の太い幹に背を預け、退屈そうに空を眺めていた男がいた。
土御門鏡介。
着崩した黒い和服に、泥に汚れた書生羽織。口には、不釣り合いなほど立派な銀の煙管を咥え、そこから紫色の不吉な煙を吐き出している。
「……また、君ですか」
健吾は反射的に、綾子の前に立ちはだかった。彼の独占欲が、警報のように脳内で鳴り響く。この男は、健吾が築き上げてきた理屈という檻を、土足で踏み荒らす唯一の存在だった。
「しつこい男は、帝都の女性には不評ですよ、土御門。ここは公共の場だ。君のような『不浄』な存在がうろつく場所ではない」
「へっ、不浄か。違ぇねぇ。だがよ、先生。あんた、自分の背後で震えてる『上等な毒』をちゃんと診てるのかい?」
鏡介が煙管の先で、綾子の影を指した。
その瞬間、風が止まった。
綾子の日傘が、ガタガタと震え始める。
「……ふん。小僧、私の縄張りを嗅ぎ回る勇気だけは認めてやろう」
声が、変わった。
清楚な鈴の音のような綾子の声が、湿り気を帯びた、酷薄な「宵闇」のトーンへと変貌する。
日傘の陰から覗く瞳は、既に紅蓮の炎を宿していた。
「……だが、私の『火』について語るなら、相応の覚悟はできているのだろうな? お前のその薄汚い肺ごと、今ここで灰にしてやってもいいのだぞ」
宵闇が健吾の肩越しに一歩踏み出し、鏡介を射抜く。
彼女の周囲だけ、空気が陽炎のように揺らめき、舗道の石畳がじりじりと熱を帯びていく。
「おぉ、怖いねぇ。……だが姐さん。あんた、もう限界なんだろ?」
鏡介は動じず、煙管を柳の幹で叩き、灰を落とした。
「あんたのその熱は、江戸の大火の生き残りだ。数万人の悲鳴と、焼けた肉の匂いが、あんたの核になってる。……それが今、この大正の『光』に当てられて、暴走し始めてるんだよ。……このままじゃ、パフェを食う前に、器のお嬢さんの喉が焼き切れて、灰になるぜ?」
「…………っ!!」
宵闇の表情が、一瞬だけ、歪んだ。
彼女は自分の喉を、レースの手袋をした手で強く押さえた。
それは、否定できない「真実」を突かれた者の反応だった。
「……先生、あんたもだ。あんたがその化け物を『一人の女』として抱えていくってんなら、その内側に詰まったドス黒い歴史を直視する覚悟があるのかよ」
鏡介は懐から、一通の、古びた和紙の封筒を取り出した。
封筒には、血のような朱色で、歪な呪印が記されている。
「正体を知りたきゃ、俺の屋敷に来な。……下町の突き当たり。地図には載ってねぇ、時間に忘れられた掃き溜め……『不浄の屋敷』だ。……そこで、あんたの喉を焼く火を鎮める『蜜』を用意して待ってるぜ」
鏡介は封筒を無造作に放り投げると、ひらひらと手を振り、柳の影の奥へと背を向けた。
「待ってるぜ、先生。……手遅れになって、お嬢さんが炭になる前にな」
男の姿が、紫煙と共に雑踏の中へ消えていく。
後に残されたのは、舗道に落ちた不気味な封筒と、健吾の白衣の袖を、爪が食い込むほどの力で握りしめる宵闇の指先だけだった。
「……藤木。……行くぞ」
宵闇の声は、震えていた。
怪異としての傲慢さの裏側に、剥き出しの「生存本能」と、そして「器」を失うことへの、言葉にならない恐怖が混じり合っている。
「……罠かもしれません。あの男の言葉をすべて信じるのは、非科学的だ」
「……黙れ。……私の内側で、あの子が泣いているのだ。……熱い、と。……苦しい、と」
宵闇は健吾を見上げた。その紅蓮の瞳には、かつてないほどの激しい熱が灯り、同時に、救いを求めるような微かな湿り気が宿っていた。
「……分かりました、宵闇。……私は君の主治医だ。君の喉を焼くものが『江戸の火』であろうと、私はそれを摘出し、沈めてみせる」
健吾は、地面に落ちた封筒を拾い上げた。
その紙は、驚くほど冷たく、死者の肌のような質感をしていた。
日比谷公園の美しい新緑が、一瞬にして、巨大な墓標の群れに見えた。
理知的な医師と、魔性の乙女。
二人の運命は、鏡介という不敵な陰陽師が仕掛けた、甘く、不気味な罠の奥底へと、音を立てて転がり落ち始めた。
「……行きましょう。……どんな蜜が必要なのか、私がこの目で確かめてやります」
健吾は宵闇の肩を抱き寄せ、夕暮れに染まり始めた下町の方角へと、一歩を踏み出した。
背後に残された柳の木が、サワサワと不気味に笑い、二人の影を長く、長く引き伸ばしていった。




