第二十二話 戦いの後の贅沢、とろける銀座パフェ
硝子の迷宮が砕け散り、九条院の姿もマネキンたちの残骸と共に霧散した。静まり返ったサロンに、初夏の銀座の陽光が再び窓から差し込む。健吾は膝をつき、肩で息をしながら、目の前の「女王」を見上げた。
漆黒のドレスに銀糸の桔梗を咲かせた宵闇は、首を小さく傾げ、紅蓮の瞳で健吾をじっと見つめている。
「……藤木。いつまでそうして、私の靴の先を眺めているのだ? 礼賛の言葉の一つでも吐いたらどうだ。それとも、私の美しさに、最新の医学とやらが停止したか?」
宵闇は、長い睫毛を伏せ、わざとらしく優雅な所作で健吾に手を差し出した。健吾は、その白く冷たい手を取り、複雑な想いで立ち上がる。
「……医学的な判断以前に、私の精神衛生上の限界です。宵闇、君という存在は……」
――ぐぅ~……
健吾が言いかけたその時、宵闇のお腹が、静寂の中に、先ほどの魔性とは正反対の、あまりにも無防備な音を響かせた。
「…………」
「…………」
宵闇の頬が、見る間に朱に染まっていく。それは血色を失った怪異の顔ではなく、年相応の、恥じらいを知る少女の熱だった。
「……違うぞ。今の音は、空間の歪みが復元される際の発振音だ。私の腹が鳴ったわけではない!」
「……そうですか。ならば、その発振音を鎮めるために、急いで『資生堂』へ向かうのが、医師としての正しい判断のようですね」
健吾が皮肉を込めて微笑むと、宵闇は「黙れ!」と吐き捨て、真っ赤な顔をして健吾の背中をドスドスと叩いた。
銀座の喧騒の中、一際モダンな輝きを放つ「資生堂パーラー」。
健吾は、ドレス姿の綾子を連れ、最上階の席にいた。隣には、なぜか当然のような顔をして、高いコーヒーを注文した土御門鏡介も居座っている。
「……おい、陰陽師。なぜお前がここにいる。これは私の『主治医』との、極めて重要な術後経過観察の時間だぞ」
宵闇が不機嫌そうに鏡介を睨むが、鏡介は煙管を弄びながらケラケラと笑った。
「固いこと言うなよ、姐さん。帝都の平和を守ったご褒美に、俺も『美人なお嬢さん』が甘味に溺れる姿を拝みたいんだよ。……な、先生?」
「私は君を招待した覚えはありませんがね……」
健吾が溜息をつき、眼鏡を直したその時。
給仕が、銀のトレイに乗せられた「ストロベリーパフェ」を運んできた。
それは、芸術品のような輝きを放っていた。透き通った硝子の器の中に、幾層にも重なる深紅の苺ソースと、純白の生クリーム。その頂点には、宝石のように瑞々しい大粒の苺が、誇らしげに鎮座している。
「…………っ!!」
宵闇の瞳が、一瞬で爛々と輝いた。彼女は身を乗り出し、パフェの周囲を漂う甘い香りを、まるで最上の魔力を吸い込むように深く、深く吸い込んだ。
「藤木……。これが、お前が言っていた……帝都の叡智の結晶か?」
「叡智というか、嗜好品ですが……。さあ、食べてください。君の『発振音』が止まらないうちに」
宵闇は、震える手で銀のスプーンを握った。彼女は、まるで初めての外科手術に挑む執刀医のような、真剣すぎる眼差しでパフェの側面にスプーンを突き立てた。
クリームと苺を、たっぷりと掬い取り、口へと運ぶ。
刹那――。
彼女の全身が、快楽の電撃を受けたように硬直した。
「……ッ、ん…………っ、ふぅ…………っ!!」
宵闇は、両手で頬を抑え、恍惚とした表情で瞳を閉じた。
漆黒のドレス姿で、魔性の美しさを湛えていたはずの彼女が、今はただの、甘さに魂を抜かれた少女にしか見えない。
「……美味い。藤木、これ、何だ? 舌の上で冷たい雪が溶けて、その後に暴力的なまでの芳醇な熱が押し寄せてくるぞ……! 九条院の怨念など、このクリーム一搾りの価値もない! お前……お前は、こんな天上の食物を隠していたのか!」
「隠してはいません。君が外に出なかっただけです」
「黙れ! これは……これは、呪いだ。一度知ってしまえば、もうこれのない夜には戻れぬ……! 責任を取れ、藤木。私の口に、次を運べ!」
宵闇は、自分で食べればいいものを、あまりの感動に理性が飛んだのか、健吾にスプーンを押し付けた。
健吾は、鏡介がニヤニヤと見守る中、顔を真っ赤にしてパフェを掬う。
「……あ、あーん……ですよ。宵闇。……恥ずかしいですから、大声を出さないでください」
「んっ。……むふぅ……。たまらん。……お前、処方箋など書いている暇があるなら、このクリームの配合比率を研究しろ。これは私の魔力を……いや、乙女の心を増幅させる特効薬だ」
宵闇は、鼻の頭に少しだけ白いクリームを付けたまま、無邪気に笑った。その笑みは、人を呪い、怪異を喰らう「怪物」のそれではなく、ただ純粋に、好きな人と美味しいものを分かち合う幸福に溢れていた。
健吾は、自分の心臓が、医学的な異常値を叩き出しているのを感じた。清楚で可憐な「綾子」の美しさは、彼の守護欲を刺激する。
だが、この奔放で、食いしん坊で、自分の欲望に忠実な「宵闇」の可愛らしさは、彼の魂を根底から揺さぶり、狂わせてしまうのだ。
「……全く。これでは、どちらが主治医か分かりませんね」
健吾は、ハンカチで彼女の鼻先のクリームを優しく拭ってやった。
宵闇は、その指先にそっと顔を寄せ、猫のように目を細める。
「……藤木。明日も、私は空腹になるぞ。……この銀座のパフェよりも、もっと甘い『何か』を用意しておけ。……さもなくば、お前の白衣に苺のソースをぶちまけてやる」
「……善処しましょう。……我儘な患者さん」
窓の外では、銀座の街に夕刻の紫が降り始めていた。
理知的な医師と、甘味に溺れた怪異、そして不気味な陰陽師。三人の賑やかな、そしてどこか歪な午後のひとときは、パフェの最後の一口と共に、甘美な余韻を残して過ぎていった。
だが、健吾はまだ気づいていない。宵闇が食べたパフェの「甘さ」よりも、彼をじっと見つめる鏡介の瞳の「鋭さ」が、これからの二人の運命に、より深い影を落とそうとしていることに。




